珠洲香が橋本への想いを深めつつあった頃
その橋本の前に{過去}が現れた
「お久し振りね」
勤務中の彼に呼び出しかけたのは 昔の女 若い彼に見切りをつけ親の勧める縁談 そちらを選んだ 貴代子だった
「いったい―」
「まだ独身(ひとり)だと聞いて会いにきてあげたのだわ お祝いに」
「何の?」
「わたしが独身に戻った―」貴代子は艶然と笑った 艶やかな赤い唇が 毒々しく感じられる
珠洲香の淡い色の唇が脳裏に浮かんだ 化粧もとれ素のままで 彼の肩に凭れ寝入っていた・・・
「へぇ?」口調にどうでもいいや―という感情を滲ませる
あの頃どうしてあんなに この女性が欲しかったのだろうか
情熱とセックスをはきちがえていたのか
あれは愛ではなかった 今ならわかる ただプライドが傷ついただけだ
「そりゃおめでとさん 幸せを祈る」
さっさか背を向ける
「ちょっと!」地団太踏んで貴代子が叫ぶ「話は終わってないわ」
「俺は終わった」過去はいらない 欲しいものは未来
貴代子はひどい凶相を浮かべた 邪な笑い
昔 若すぎた男 こがれるような視線が心地よかった
年上の夫はあの情熱も体力にも欠けていた
常に満たされぬ思い
飢えひからびていく感じ
その飢えを満たしたくて別れたのかもしれない
愛を見失った女は己の肉体を過信し 情欲へ走る
少し手を伸ばすだけで届く愛に 信じられず躊躇から抜け出せずにいる女 自分でももどかしいほどに 相手の心も自分の心も信じきれずにいる
綺麗な体で夫に抱かれる 結婚して初めて体をゆるす 少女の頃からの夢は狡くはないだろうか
前に経験がないのだ だから怖いのだ―そう話した時 橋本は笑っていた
出会ったその日にホテルへ行く人間も多い時代に
橋本がどれだけ男としての欲望を堪えているか 珠洲香は知らず そうした思いを殺すほどに 彼女が大事なのだと それすら分からないのだった
ただのセックスならば 会って抱いてそれでおしまいだ
橋本は全部ほしいのだった 珠洲香の体も心も人生も
互いに本当の気持ちを言い出せず 会話は途切れがちになる
もどかしい思いのまま二人は食事を済ませ 店を出た
さてこれから 別れたくない 放したくない このままでは―
そんな焦燥にかられる橋本と珠洲香の前に 貴代子が現れたのだった
珠洲香を押し退け 橋本の腕をとり「ここから先は大人の時間よ」と言った