![]() | サムライ 評伝 三船敏郎 (文春文庫) |
松田 美智子 | |
文藝春秋 |
序章 忘れられた栄光
第一章 世界のミフネ
第二章 三船プロダクション
第三章 離婚裁判
第四章 黒澤明との不仲
第五章 内紛と分裂
第六章 知られざる最期
第七章 追悼 三船敏郎
あとがきーからなる一冊
著者がインタビューに答えられる相手 もしくは答えてくれた相手の言葉から書きおこしている
自分の感想も交えながら
三船敏郎という稀代の俳優のその仕事ぶり 役柄への取り組み方
ゆえに生じた監督との亀裂
隆盛を極めた三船プロダクションから戦力である俳優が多く出て行き
その理由はきちんとした言葉では書かれていない
今 生きている人間もいて名誉棄損とか様々な問題を避けたのだろうと思われる
筆者の中にその答えはあるのだろうけれども
父は 三船敏郎はいい俳優だと言って映画でもテレビドラマでも出演された番組はよく観ておりました
「荒野の素浪人」の峠九十郎役とか
「隠し目付参上」など懐かしく思い出されます
晩節を汚したーと思うのは 離婚問題でした
若い女優にいれあげてーそれに耐えられず 出て行った妻のことを悪く言った三船敏郎
妻にも意地があり離婚をしないーと言った
当時の報道では 三船敏郎さんが妻と離婚しようと思う原因となったのは その大部屋の名も無い美人でした
それが妻が出ていったあとの三船敏郎の自宅に自分の母親まで呼び寄せて住むようになりー
週刊誌の書くことです 事実かどうかはわかりません
創価学会に入れあげているその元大部屋の美人女優は 三船敏郎を取り込んで 経営にまで口出すようになり
それが三船プロダクションの幹部が多くの俳優を連れて出て行く原因となったーと
(元大部屋の女優にねだられるままに高価な品を買い与えていたーと作中にあります
俳優としての演技・実力はともかく せがんだり男の扱いにはたけていたーようですね)
その美人女優は後に喜多川美佳と名乗るようになりました
喜多川美佳さんは申し込まれたインタビューには こう答えたそうです
「現在は女優から離れていますので」
娘の三船美佳さんも事務所を通じて取材を断ってきたそうです
20年続いた喜多川美佳さんと三船敏郎さんが別れた(正式な結婚はしていないのでー元々内縁関係ではありますが)理由として
著者は創価学会信者の喜多川美佳が 三船敏郎の留守中に三船敏郎の父親の位牌を捨てたことをあげています
(創価学会の仏壇はどんどん豪華なものに買い替えながらー)
三船美佳という娘が産まれたけれども 喜多川美佳という人間は三船敏郎にとって何だったのでしょう
三船美佳は芸名であり 本名は大野美佳です
年若い美人に入れあげる男は多いですが
三船敏郎が改名前は北川美佳という人間に出会うことがなければーと思わずにはいられません
この女性との出会いによって しだいに三船敏郎という俳優の運命も 三船プロダクションという会社も暗転し傾いていったように思われるからです
やがて老齢となった三船敏郎の最期を看取ったのは その元・大部屋の美人女優ではありません
離婚はしないーと言っていた夫人も弱った三船敏郎さんに会いにきたりもしましたが 物忘れの症状も出ていた三船敏郎は妻が誰か分からなくなっています
そして妻は三船敏郎より先に病死します
この妻との間の二人の息子が三船敏郎の最期を看取りました
三船敏郎の父は写真館を経営していたことがあり 三船敏郎も写真を写す腕があり 俳優としてでなく撮影する側の仕事を望んでいたようです
ただ三船敏郎はいままでいなかったタイプの俳優であり その圧倒的な存在感ある逸材でした
電車に乗っていた谷口千吉監督が東邦の役員の藤本真澄に 「俺は ああいうのがほしいんだよ 」と示したのが 同じ電車に乗っていた三船敏郎でした
藤本が「あれは うちの子だよ」
谷口は三船に映画に出ないかーって声をかけると 三船は こう答えます
「僕は俳優にはなりません 男のくせにツラで飯を食うというのは あまり好きじゃないんです」
谷口は「出てくれたら背広を作ってプレゼントするよ」などとも言って口説いたそうです
それで三船が出た映画が「銀嶺の果て」
そこから三船敏郎の俳優人生は始まりました
俳優として 一人の男としての物語
欠点も弱みもあったけれど
俳優という仕事には真摯に取り組んでいた
無念さも抱えて逝ったーようにも思えます