鵠沼・昔砂丘の一本松

湘南藤沢住人の記憶の手掛かり …… フォト・ブログ

中和泉・中之宮左馬神社

2010-03-16 | サバ神社

サバ神社探訪第5号も横浜・和泉町の左馬神社です。
相鉄いずみ野線いずみ中央駅から、和泉川沿いに南に下り、
右手にある桜川公園の裏手の丘にありました。


桜川公園を抜けて、左側から丘の道を少し上ると、神社の石段がありました。
階段の下からは、空が見えるだけで、境内の様子はわかりません。


階段を上ると、和泉地区の神社で最大と言われる境内が広がっていました。
残念なことに、ここも社殿の背後に相鉄いずみ野線の高架が見え、
その手前も住宅開発が進められていました。



ここの社殿もよく手入れがされていました。
賽銭箱の文字が遠くからもはっきり見える様子が可笑しかったです。
社殿の右奥のシラカシは横浜市の名木古木に指定されています。


社殿の掲額によると、正式な名称は「中之宮左馬神社」でした。
ここも祭神は源満仲とのことです。
源満仲は源氏の始祖で、源頼光の父とのことです。
武家としての源氏のご先祖ということで、祭神になっているのでしょう。


境内の右手には、大きな神楽殿もありました。お祭りなどには格好な境内です。

和泉町・地蔵原の水辺

2010-03-15 | 横浜


相鉄いずみ野線いずみ中央駅の東側の和泉川の河床は
「地蔵原の水辺」として市民の憩いの場所になっています。
ちょうど昼休みの時間帯でしたが、小学生が清掃に取り組んでいました。
すぐ近くの中和田小学校の生徒達でしょう。


水辺の石段の汚れを取り除こうと、この少年は一人で黙々とブラシを使っていました。


橋の下の壁画が汚れたので、なんとか汚れを落とそうと、3人の少女がモップで格闘していました。
自分達が書いた壁画かも知れません。


昼過ぎに現場に戻ったら、子ども達は学校に戻り、静かな水辺に戻っていました。
生徒さん、ご苦労様でした。

旧小池家の内部をのぞく

2010-03-14 | 藤沢


新林公園に移築保存されている旧小池家を外からのぞきました。
この家は柄沢の名主だった小池家が天保12年(1841)に建てたものです。


土間を除いて、内部は立ち入り禁止なので、今回はのぞきに徹しました。
正面から居間、板の間、その向こうの薪置き場をのぞいたところです。


板の間の囲炉裏に吊ってある自在の鯉です。なかなか立派です。


奥の間の先にある屋根裏に上がる階段です。
ここからは確認できませんが、多分裏側は箪笥になっていると思われます。

和泉神田・佐婆神社

2010-03-13 | サバ神社

サバ神社探訪第4号は、横浜・和泉町の佐婆神社です。
相鉄いずみ野線のいずみ中央駅から川沿いに北へ歩いて、
神田橋の少し先を左に入ったところでした。


川沿いの道から、奥に鳥居が見えたので住宅街の中の道を進みました。
鳥居をくぐって、石段に近づくと、新しい佐波神社の碑がありました。


境内は広いのですが、神社の背後に相鉄いずみ野線の高架が出来た影響で、
社殿のまわりがが明るく、ちょっと重みが感じられないのが残念でした。
その昔は、社殿が「へっつい」のような土塁に囲まれ
「へっついさま」といわれた神社だと伝わっています。


社殿に掲げてあった名前の額です。建物は比較的新しいものでした。
ネット情報によると、祭神は源義朝ではなく源満仲といわれています。


境内には、大きなタブの木が茂っていました。横浜市の名木古木に指定されています。


タブの木の真下から見上げてみました。
このタブは佐波神社の長い歴史を見つめてきたのでしょう。

和泉川の風景

2010-03-12 | 横浜


相鉄線いずみ中央駅の北側、和泉橋から和泉川の上流を眺めたところです。
左側遊歩道には小型の太陽光発電設備が並び、川沿いにはミツマタなどが咲いていました。
右側には泉区役所があり、歩道に面した緋寒桜が満開でした。
和泉川は、俣野で境川に合流します。


川沿いに咲いているミツマタにヒヨドリがいました。
花の蜜を吸いに来たのでしょうが、花は多少盛りを過ぎているので、
「さて、次はどこに行こうか」といった様子でした。


対岸の区役所の緋寒桜の下のベンチで、携帯電話を耳にしている人がいました。
花は派手ですが、人は落ち着いた風景でした。

新林公園の崖崩れ対策

2010-03-11 | 藤沢


新林公園の西側の道に沿って、一段高く造られた歩道です。
すぐ近くの新林小学校の通学路ということもあって、自動車事故対策もありますが、
大事なのは崖崩れ対策です。


かなりの急傾斜なので、大雨の後の崖崩れが心配です。
公園の景観も考え、コンクリートでなく、植物に優しい対策が行なわれました。
現在は仕掛けが丸見えですが、やがて緑が濃くなれば見えなくなるのでしょう。
期待しています。

西俣野・八幡社

2010-03-10 | 藤沢


小栗坂の西俣野バス停の手前を左折して、
西俣野の段丘の裾を境川の上流に向かって20分ほど歩きました。
道が境川に接近し、また川から少し離れる場所で左折、
民家の庭のような道に入りました。段丘の茂みの裾に鳥居がありました。


かなりの急傾斜で、帰り道を心配しながら石段を登りました。


小さな社殿がありました。資料によると八幡社ということですが、
由来の分かる掲示等はありませんでした。
ネット情報では日本で一番多いのが稲荷社で二番目が八幡社のようです。
帰りに鳥居の裏側に昭和3年の文字を見つけました。


西俣野・佐間大明神

2010-03-09 | サバ神社

サバ神社探訪第3号は西俣野の佐間大明神です。
小栗坂を下って西俣野バス停手前を右折、すぐ左の小道に入った場所にありました。


農家の庭の一部を生垣で囲んだような境内です。
手前に花壇が作られていて、手作りの神社といった雰囲気でした。


赤トタンの小さな社殿の中には、小さな入れ子のような神殿が安置されていました。
周囲をよく見渡しましたが、社名も由来も見当たりませんでした。


最後に天井を見上げて、そこにある板に文字が書いてあるのを発見しました。
昭和11年5月6日佐間大明神修繕の記録で、大工と氏子7名の氏名が並んでいました。
その昔、左馬大明神であったが、佐間大明神に改称された神社と思われます。

西俣野・閻魔堂跡

2010-03-08 | 藤沢


瞽女淵の碑の脇の農道を北に進み、道はそのまま左に曲がって小さな坂を上りました。
右手の工場の先を右に折れてすぐ右手の草むらの奥に閻魔堂跡がありました。
敷地の左側は集落の墓地ですが、右側に古い墓石が横一列に並んいました。


古い墓石の中央に小栗墓塔の文字がありました。その左隣は照手姫の墓石のようです。
背後に花応院が菩提を弔った新しい卒塔婆が並んでいました。
その昔、ここに閻魔堂(法王院十王堂)があり、天保11年(1840)に火災で焼失、
閻魔大王像は助け出されて花応院に安置されたと伝わっています。

瞽女淵と土手番さま

2010-03-07 | 藤沢


花応院の山門を出て右に進み、すぐ左に曲がって境川に沿った道を行くと、
右手に水田、左手に工場が見える場所に出ます。
工場と道の間の草むらに瞽女淵の碑が建っています。


昔、この辺りは境川がたびたび氾濫し、木々が茂り暗い淵があったようです。
延宝年間(1673-1680)瞽女(盲目の旅芸人)が淵に落ちて溺死しました。
その後も数人の死者が出たようです。
この碑は大正9年に村の有志が建てたものです。


弘化4年(1847)、ある浪人がこの淵に身投げして死にました。
遺書に「故あって自殺するが、ご迷惑代わりに、人柱になって堤防を守りたい」
とあったので、村人が碑を建てて弔ったようです。
その碑が瞽女淵の碑の左手前にあります。
首がもげていますが、足元の石にかすかに水難よけの文字が見えます。





苔の命は短くて・・・

2010-03-06 | 小さな庭


このところ雨が続いたので、玉石垣の苔の緑が新しくなりました。
砂地の玉石垣ですから、いつまでも苔の緑を楽しむと言う訳にはいきません。
晴天2日で、くすんだ茶色に変わります。
苔の命は短くて、苦しきことのみ多かりき」です。

西俣野・花応院

2010-03-05 | 藤沢


小栗坂を下り切り、西俣野バス停の手前を右に曲がって南に行くと、
右手に花応院の山門がありました。
創立慶長9年(1604)の曹洞宗の寺院です。


山門の右手にあった掲示です。
花応院は小栗判官縁起の寺として有名で、毎年1月15日と8月15日に、
小栗判官縁起絵巻と閻魔十王図の絵解きが行なわれるようです。
これらの資料は旧名主飯田五右衛門家にあったものが、戦後花応院に移管されたものです。


花応院の本堂です。ここには本尊の聖観音の他に、
閻魔大王像、その胎内にあった石造閻魔大王坐像(市指定文化財)が安置されています。


本堂の左手前の掲示です。
江戸時代末期、天宝11年(1840)に近くの閻魔堂が火災になり、
村の青年が閻魔大王を背負って助け出し、花応院に運んだと伝わっています。
この閻魔大王像に小栗判官縁起絵巻が揃ったので、花応院の評判になったのでしょう。


本堂の正面です。左右の柱に「立春大吉」、「鎮防火燭」の木札がはってありました。
「鎮防火燭」の札の「火」の字が小さく書かれていて、防火の思いが伝わってきました。





西俣野・小栗塚跡

2010-03-04 | 藤沢


小栗坂を更に下り、左手にある福祉施設湘南ゆうき村の前に出ました。
これは門の左手にあった小栗伝説の紹介です。


小栗塚は湘南ゆうき村建設に伴って消滅しました。
現在は石垣の上に「伝承小栗塚之跡」の石碑が建っています。
小栗塚は江戸時代の説教浄瑠璃の世界では、
小栗判官が葬られた冥界の入口とされています。


402号線を渡って向かい側の石垣を上ると、そこには畑地が広がっていました。
すぐ手前の畑の中に、大きなサカキが茂った土塚がありました。
これが伝説の土震塚(すなはらいづか)です。
閻魔大王の計らいで小栗判官が餓鬼の身になって生き返り、
この塚から這い出し身体の土を振り払った名残の塚と伝わっています。 

小栗坂の祠(ほこら)

2010-03-03 | 藤沢


地神社から東へ向い、402号線の西俣野・小栗坂を下りました。
小栗坂の途中、左手に大きな木が茂っていたので、根元の草むらに入ってみました。
小さな祠(ほこら)がありました。


名もなく由来も不明な祠です。
それでもここで祈願する人がいるようで、祠に数枚の絵馬が奉納されていました。
周辺の開発に負けず、この祠が存続することを祈りました。

亀井野・地神社

2010-03-02 | 藤沢


小田急線六会日大前駅の東側を線路の沿って南に歩き、左手の森を目指しました。
地神の森公園です。


公園を抜けて森の中を進むと、地神社の参道に出ます。


社殿の右側に大きな「地神社」の石碑が建っています。
創立は不詳のようですが、文政9年(1826)の再建です。
当時の周辺は見渡す限り山林と農地だったと思われます。


安政の頃(1854-60)、この辺りを知行していた旗本の岡部庄九郎が
この神社で山林安全・五穀豊穣を祈ったと伝わっています。
現在はすぐ近くに日本大学生物資源科学部と附属農場があります。