【新刊紹介】:国家は葛藤する ■なぜ日本は貧乏くさい国になったのか? 国運衰退にはセオリーがあった! タガの外れた国難的危機をいかに抜け出すか?
『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【新刊紹介】:国家は葛藤する ■なぜ日本は貧乏くさい国になったのか? 国運衰退にはセオリーがあった! タガの外れた国難的危機をいかに抜け出すか?
第1章●政治家の劣化が加速し迷走する日本
第2章●日本の岐路、あり得た未来を考える
第3章●葛藤国家・日本の誕生
第4章●エリート教育に失敗した日本
第5章●葛藤国家・日本の未来
はじめに
池田清彦
内田樹さんとは短い対談を何度かしたことがあったが、今回少し長い対談をして、日本をどう立て直すべきか、という構想がよく似ていることを知って愉快であった。内田さんも私も「いい加減」にやろうという考えなのである。「いい加減」って何となくネガティヴなコトバのように聞こえるが「良い加減」と発音すると、いきなりポジティヴなコトバになるから不思議だ。同じことなんだけどね。
「いい加減」とは無矛盾性を追求しないで、今使える社会的リソースを駆使して、人々が今より多少とも幸せになるには、とりあえず何が一番緊急の課題かという、すぐれてプラグマティックな方法論なのだ。多くの日本人はかなり真面目なので(相当なおバカという意味でもあるが)、首尾一貫性をとても良いことのように思っている人が多いけれども、状況は刻々と変わるのだから、首尾一貫性は滅びへの道なのである。
太平洋戦争は典型で、一度決めたことを変えることができなかったので、戦況が悪くなっても戦争継続以外の選択肢に目を塞ぎ、ひたすらクラッシュに向かって突き進んだ。結果310万人もの日本人が殺されたわけだからひどい話である。今、規模が小さいとはいえ、大阪万博も同じ道を歩んでいるように見える。アメリカの哲学者のエマソンは「首尾一貫性は小人の心に宿るお化けみたいなものだ」と喝破している。「いい加減」の価値を知らない日本人にはエマソンのコトバは理解不能かしらね。
「いい加減」でない人は損切りができない。今までつぎ込んだ資金や努力を捨てることができない。ここでやめたら今までの努力が水の泡だから、もっと頑張らなければ、というパトスは滅びへの道だ。太平洋戦争を途中で切り上げられなかったのも、ここで白旗をあげたら今までに戦死した兵士の命が無駄になるという思いに拘泥したためだ。それで、それまでとは桁違いの人が亡くなったのだ。
歴史が我々に教える最大の教訓は、すべての政治システムは崩壊するということだ。長い歳月に耐える政治システムは存在しない。システムに合わせて状況が変わるわけではないので、状況が変わればそれに合わせてだましだまし生き延びるほかはない。
私事になるが、結婚式のとき(結婚式の費用は親父が金を出してやるから、やれというのでイヤイヤやったのだ)、牧師がムニャムニャと御託を並べて、最後に「永遠の愛を誓いますか」聞いた。女房は「はい」と言ったが、私は「わかりません」と言って、牧師はちょっとびっくりしたようだった。
私の友人の昆虫分類学者は、自分が記載した新種の虫の学名に奥さんの名前を付けたが、しばらくして離婚した。学名は永遠だが、愛は永遠ではないのである。「君が代は千代に八千代に……」と続くわけだが、永遠という甘美な響きは頭の中にだけある妄想であって、騙されると痛い目にあう。
ヒトの個体の寿命はせいぜい100年、人類という種の寿命はせいぜい200万年。未来永劫のことを考えても詮無いのだ。余命が50年の人は50年つつがなく生きられる方途を考えるのが一番重要で、100年後のことを考えるなとは言わないが、未来のために今の生活を犠牲にするのは本末転倒だ。
瀕死の病人は、とりあえず命が助かることが最重要課題であって、それ以外のことは命が助か ってから考えればいいのだ。というわけで、内田さんとは今の日本が直面している待ったなしの問題のいくつかについて意見を交換した。食料問題、少子高齢化問題、日本の国力がノンストップで下がり続けている根本原因、教育の崩壊をどう立て直すべきか、日本人のコモンセンスをどのように担保するか、などなど。
私が今一番心配しているのは食料自給率が38%しかないという現状だ。内田さんもこれについては異存はないと思う。国民の生活にとってもっとも大事なものは食料である。気候変動や、火山の大爆発によって、世界的な食糧難になったときに、自給率38%はいかにも危うい。
食糧輸出国でも自国民の食料が足りなくなれば、日本に売る分はないというに違いない。そうなると日本人の半分は飢えに直面するだろう。私の試算では減反前にコメの生産量を戻せば、自給率は60%近くまで回復する。これは早急にやるべきだ。軍事費をいくら増強しても、戦闘機は食えない。
少子高齢化は期間限定の問題で、あと15年〜20年もたてば、自然に解消されるので、恒久的なシステムを作らずに、その間だけ老人にベーシックインカムを配るなどのアド・ホック(一時しのぎ)な政策で乗り切ればよい。これも「いい加減」の見本のような話だけれど、内田さんは賛成してくれるだろう。
日本が、天皇制と立憲デモクラシーという矛盾する統治原理を上手く折り合わせるにはどうすべきかも、この対談の重要な論点だ。過激なリバタリアンの私は、究極のところでは天皇制に反対だけれども、天皇は日本人のコモンセンスの範例としてとても優れているので、とりあえずは潰さないほうが賢そうだ。二つの矛盾した統治原理を、矛盾したままでだましだまし使うというのが「いい加減」の極致のやり方で、矛盾を解消しようと思うと大体、碌なことにはならないのだ。
おわりに
内田 樹
池田清彦先生とは養老孟司先生が主宰する「野蛮人の会」ではじめてお会いしました。もう20年くらい前だと思います。「野蛮人の会」というのは僕が勝手に命名しているだけで、そういう名前の会があるわけではありません。
最初に養老先生のご招待で「ふぐ」をごちそうになったときに、同席している人たちについて「先生、この人たちをどういう基準で人選されたんですか?」と伺ったら養老先生が「全員、野蛮人てことだろう」と呵々大笑されたことにちなんでおります。
その中に池田先生もいて、賑やかにお酒を飲んで、ふぐを食べて、大声で笑っていました。池田先生とはそのときにはじめてお会いして、「なんだかやたらに楽しそうな人だな」と思いました。それから養老先生の招集する会で毎年お会いするようになりました。
あるとき、池田先生とおしゃべりしていたら、池田先生が「養老さんは内田さんのこと『内田さん』て呼ぶだろ? でも、オレのことは『池田君』て呼ぶんだよ」と言って実にうれしそうに笑ったのを覚えています。なるほど、見渡すと「野蛮人の会」で養老先生から「君」で呼ばれているのは池田先生だけなんです。
2人の距離感は特別なんだなと思って、すごく羨ましくなったことを覚えています(もちろん、池田先生は僕を『うらやましがらせる』ためにそう言ったのです。ぐむむ)。池田先生はそういう「少年」ぽい人なので、おしゃべりしていると、なんだかこちらも大学生に戻ったような気になります。
それから二人で対談を何度かすることになりました。池田先生の話はどんどん暴走するのですけれど、僕も「話をまとめる」とか「わかりやすい結論に落とす」ということにはぜんぜん興味がないので、たいてい2人して話をさんざん散らかしたまま、「おや、時間となりました」で終わってしまいました。企画した人には申し訳ないけれど、こればかりは性癖なので仕方がありません。
だから、この本の企画が持ち込まれたときにも「大丈夫かしら」と思いました。編集者には「こんな本を作りたい」という何らかの心づもりがあってのことなのでしょうけれど、たぶん「そんな本」にはならないと思ったのです。実際、企画書に書いてあることとはぜんぜん違う話を2人でしゃべっているうちに規定の時間を使い果たしてしまいました。でも、こうやって文字起こししてみると、それなりにまとまった対談になっていたので、ほっとしました。
「まえがき」で池田先生が書いてくださっているように、先生と僕の意見が合うのは、「アド・ホック」ということについてです。ad hoc はラテン語原義は「これのために」(for this)で、「とりあえず」とか「その場限りの」という意味で使います。本邦の表現に言い換えると「臨機応変」です。
僕は関西弁でいう「イラチ(せっかち)」です。それも「病的な」と形容がつくほどのイラチです。だから、無駄なことで時間を費やすことができません。そういう病的イラチの人間がたどりついた実践的な教訓は「複雑な話は複雑なまま扱うほうが話が早い」ということです。
誤解している人が多いのですが、「複雑な話を簡単」にするとたいていの場合、「話が遅く」なります。複雑な現実を無理やり簡単なスキームに押し込めば、たしかに話が簡単になったようには見えますが、現実は相変わらず複雑なままです。そのうち現実は「簡単なスキーム」ごと吹き飛ばして、一層複雑なものになって再帰してくる。そういうものなんです。話を簡単にした分だけ結果的には無駄をしたことになる。僕はそういう無駄ができない人なので、いきおい「話を複雑にしたまま話を進める」ことになります。
話を複雑にしたまま話を進める場合でも、「複雑な話」にちょっとガムテープを貼ったり、糸で縫ったり、ホッチキスで止めたりということはします。そういう手当をしておかないと「複雑な話」は持ち運びできませんからね。でも、それはあくまで「一時しのぎ」であって、長持ちはしない。だから「アド・ホック」なんです。でも、そういう「その場しのぎ」を続けているうちに、複雑な話の複雑さを保ったまま、けっこうな距離を踏破することがあります。
そして、そうやって時間稼ぎをしているうちに話を複雑にしていた要素のうちのいくつかがなくなるということが起きます。事態を紛糾させていた人物が死ぬとか、支配的だったイデオロギーが飽きられるとか、磐石に思えたシステムが壊死するとか、いろいろです。話を簡単にしたがる人たちはこの「一定の時間複雑なまま放っておくと、いつのまにか自然に問題が簡単になっていることがある」ということにあまり気づいていないようです。
話を簡単にしたがる人は、「まず話を簡単にして、そこから複雑な話に進む」ということが知性の働きだと思っているようですけれども、それは違います。複雑な話の複雑さを毀損しないまま、それを「ペンディング」する作法を工夫するところに知性は発揮される。僕はそう信じています。
例えば、レヴィナスの「他者」という哲学的概念はきわめて難解であり、意味がよくわかりません。だから「レヴィナス哲学を論じるにあたって、まずキーワードを一意的に定義しようではないか」というようなことを言われるととても困ります。そんなことできるはずがない。
何十冊からレヴィナスを読み込んだあとに、ようやくその概念の手触りがわかるような難解な概念については、「ペンディング」しておくほうが話が早いんです。だから、「まあ、『他者』と言ったらとりあえず『他の人』だわな」くらいのアバウトな了解にしておいて、じゃんじゃんレヴィナスを読んでいくほうが話が早い。これが池田先生の言われる「アド・ホック」の骨法だと僕は理解しております。「まあ、とりあえず……だわな」で話を進める。
本書では、日本が天皇制と立憲デモクラシーという二つの両立しがたい統治原理をなんとか折り合わせていくためにはどうしたらいいのかという話が重要なトピックの一つとなっていますが、こういう複雑な問題については「これが正解」というシンプルな解を提示してみせてもあまり意味がありません。
例えば天皇制は「是か非か」について「まずこれを決してから、次にその具体的手順について話を進めよう」と言っても、無理なんです。「天皇制を廃止する」ことについての国民的合意を形成しようとしたら、膨大な政治的リソースをこのために投じなければならない。それ以外の政策的課題をぜんぶ後回しにして、ひたすら「天皇制は是か非か」を論議しなければならないし、結果によっては深刻な国民的分断を招きかねない。
僕はそんなことをしている余裕は日本にはないと思っています。そんな暇があったら、それ以外の、具体的に日本のためになること(食糧とエネルギーを自給するとか、地方移住・地方分権を進めるとか、学術的発信力を高めるとか)を優先的にしたほうがいい。ものごとには優先順位というものがあります。
火事の現場で「なぜ火事は起きたのだろう」と熟慮する人間も、「被災者たちを慰藉するために私たちは何をすべきだろう」と熟慮する人間も消火活動の邪魔になります。そういうときは、「いいから火を消すの手伝えよ」と言われる。火事の原因を究明することも、被災者を支援することも、たいへんに大切なことではありますけれど、現場では「火を消す」ことが優先する。
「アド・ホック」というのは「その場しのぎ」というだけの意味ではありません。「とりあえず」とか「さしあたり」とかいうことがきっぱりと言えるためには「ものごとの優先順位」がわかっていないといけない。これはきわめて叡智的な営みなのです。
池田先生と僕がこの対談の中で話していることは、よく読むとわかって頂けると思いますが、「とりあえず」なすべきことと、なぜその優先順位が高いのかをめぐっています。ほとんど「それだけ」しか話していないと言ってもいいくらいです。ということは、この対談の中で僕たちは「一般論」をほとんど語っていないということです。
「一般論として正しいこと」は基本「無時間モデル」です。「一般論として正しいこと」はたいていの場合、手持ちの時間が有限であること、手持ちの知的資源が有限であることを勘定に入れていません。そして、僕たちは「有限」ということが気になって仕方がない人たちなんです(池田先生のお得意な「オレはもうすぐ死んじゃうけどね」というのは使える時間と資源が「有限」であるから、それを投じる先の「優先順位」の決定が大事であることを強調するために繰り返されているのです)。
われわれはいわば冷蔵庫にある「賞味期限ぎりぎりの豚肉とキャベツともやし」で何が作れるかというようなことを話し合っているのでありまして、それは「金と時間がたっぷりあるとこんなに美味しい料理が食べられます」というのとはぜんぜんレベルの違う話なんです。
おっと、どうすれば話を早くできるかを縷々説明していたら、すっかり話が長くなってしまった。老人の話は長くなっていけませんので、もうこれで終わりにします。最後になりましたが、あちこちへ逸脱する話をなんとかとりまとめてくださった近藤碧さんのご苦労ご心労にお礼とお詫びを申し上げます。長い時間とりとめのないおしゃべりのお相手をしてくださった池田清彦先生のご海容にも伏して感謝申し上げます。また遊んでくださいね。
■本体価格 1,600円+税
著者略歴(内田樹) |
1950年東京都生まれ。神戸女学院大学名誉教授。神戸市で武道と哲学のための学塾「凱風館」を主宰、合気道凱風館師範(合気道七段)。東京大学文学部仏文科卒、東京都立大学人文科学研究科博士課程中退。専門は20世紀フランス文学・哲学、武道論、教育論。主著に『ためらいの倫理学』(KADOKAWA)、『レヴィナスと愛の現象学』(文春文庫)、『寝ながら学べる構造主義』(文春新書)、『先生はえらい』(ちくまプリマー新書)など。第六回小林秀雄賞(『私家版・ユダヤ文化論』文春新書)、2010年度新書大賞(『日本辺境論』新潮新書)、著作活動全般に対して第三回伊丹十三賞を受賞。近著に『街場の身体論』(エクスナレッジ)、『勇気論』(光文社)、『図書館には人がいないほうがいい』(アルテスパブリッシング)など。 |
著者略歴(池田清彦) |
1947年、東京都生まれ。生物学者。東京教育大学理学部生物学科卒、東京都立大学大学院理学研究科博士課程生物学専攻単位取得満期退学、理学博士。山梨大学教育人間科学部教授、早稲田大学国際教養学部教授を経て、現在、早稲田大学名誉教授、山梨大学名誉教授。高尾599ミュージアムの名誉館長。生物学分野のほか、科学哲学、環境問題、生き方論など、幅広い分野に関する著書がある。フジテレビ系『ホンマでっか!?TV』などテレビ、新聞、雑誌などでも活躍中。著書に『食料危機という真っ赤な嘘』(ビジネス社)、『多様性バカ』(扶桑社)、『人間は老いを克服できない』(角川新書)、『SDGsの大嘘』(宝島社新書)など多数。また、『まぐまぐ』でメルマガ『池田清彦のやせ我慢日記』 (http://www.mag2.com/m0001657188)を月2回、第2・第4金曜日に配信中。 |
元稿:総合出版ビジネス社 主要出版物 社会・国際・政治 【話題・著書「国家は葛藤する ■なぜ日本は貧乏くさい国になったのか? 国運衰退にはセオリーがあった!」】 2024年11月01日 16:15:00 これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。