【社説①・12.08】:開戦の日に考える 戦争が父の心を壊した
『漂流する日本の羅針盤を目指して』:【社説①・12.08】:開戦の日に考える 戦争が父の心を壊した
東京都武蔵村山市に「PTSDの日本兵と家族の交流館」があります。元生協職員の黒井秋夫さん(76)=写真=が自宅の庭に建てたのは2020年。全国から延べ約3千人が訪れました。
黒井さんは、元陸軍兵の父慶次郎さんの心の病に苦しめられました。暴力や暴言はないけれど、何も話さず反応がない。無気力で定職に就けず家は貧しい。「昔は精悍(せいかん)で有能な人だった」と聞いても父を軽蔑していました。
父がなぜ別人になったのか。それが戦争による心の傷だと気付くのは、ベトナム帰還米兵の存在を知ったことがきっかけです。
米国では1960年代から70年代まで約10年続いたベトナム戦争の帰還兵に自殺や暴力、無気力、アルコール依存が多発していました。戦場の光景が突然よみがえることもあり、戦争で強いストレスがかかったためだとして、PTSD(心的外傷後ストレス障害)の診断名がつきました。
黒井さんは帰還米兵に父の姿が重なりました。農家の九男に生まれ、満州事変の翌32年、20歳で召集され父は計7年間、中国の戦場にいました。戦後故郷の山形に帰ったときは34歳でした。
死後見つかった陸軍時代の記録から中国侵略を「昭和維新」と信じていたことも分かりました。兵士だけでなく住民も殺したはず。77歳で亡くなるまで孫の声にも無反応だったのは戦争トラウマ(心的外傷)だったのでしょう。
◆皇軍が否定した心の病
きょう8日は83年前、日本が米国などと太平洋戦争を始めた「開戦の日」です。
アジア各地に戦場を広げていったこの戦時期に増えたのが兵士の精神疾患「戦争神経症」でした。目立った外傷はないものの、体の震えや手足のまひ、歩行や言語の障害、声が出なくなる兵士が多数現れたのです。
38年、千葉県市川市に精神神経疾患病院として国府台陸軍病院が開設され、45年の敗戦までに約1万人が入院しています。
すでに第1次世界大戦期の欧米で帰還兵の「ヒステリー」や「神経衰弱」などの戦争神経症が知られるようになり、戦争トラウマとして位置づけられていきます。
しかし、日本では軍幹部が「世界戦争で欧米軍で多発した戦争神経症は幸いにして一名も発生していない」と豪語するなど「皇軍」では心の病が否定されました。
当時の軍医は「戦争神経症」を戦闘の衝撃よりも、神経質や敏感など兵士の気質に原因があり、帰郷や恩給などの願望が原因ともみていたのです。
しかし、敗戦時に830万人もの兵がいた日本軍です。黒井さんの父のような戦争トラウマが多く発症していたはずです。
米国ではベトナム、イラク、アフガニスタン戦争などで多数の兵士にPTSD症状がみられることが分かっていますが、日本では敗戦時に軍の記録は焼却され、全体像は分かっていません。
ただ国府台病院には軍の命令に従わず当時の院長らが守ったとされるカルテが残されていました。8千人分を分析した研究では統合失調症が最も割合が多く、戦争神経症患者が2割近くいることも分かり、ここに戦争PTSDも含まれると考えられます。
◆家族も苦しみ引き継ぐ
戦時中、心を病む兵士へのまなざしは、戦闘で体に傷を負った兵士に比べて冷たかったのです。
家父長制を基盤とした日本社会の壁もありました。男らしさが求められる軍隊で、婦人病とされた「ヒステリー」は嫌われ、恩給の受給も兵士自らが恥じる風潮もありました。多くの兵士が恩給対象外とされた記録も残ります。
戦後、心に傷を負った元兵士は忘却され、家族に暴力をふるい、酒におぼれ孤独に苦しみました。元兵士家族の交流会を開く黒井さんの元に100人余が集まり、兵士の心の傷が世代を超えて引き継がれる苦悩を語り合っています。
戦場で人の死に直面する経験は長期にわたり人の心に影響を与えます。イラクなどの海外や東日本大震災などの災害に派遣された自衛隊員にも、PTSD傾向にある人が多くいることがアンケートで分かっています。PTSDは今日的な問題でもあるのです。
黒井さんは今秋、中国吉林省長春市を訪ねました。若き日の父がいた場所です。父が犯した侵略を中国の人に謝罪するためでした。黒井さん自身も生涯をかけ、引き継いだ戦争トラウマに向き合っています。元兵士の家族にとって、戦争は今も終わっていません。
元稿:東京新聞社 朝刊 主要ニュース 社説・解説・コラム 【社説】 2024年12月08日 09:32:00 これは参考資料です。 転載等は各自で判断下さい。
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