こんな記事があった。これを入り口に橋下市長の手法を分析し、批判してみた。以下掲載しておこう。
働く法律相談(「朝日」夕刊 2012年3月12日)
異同事例がパワハラになることは? 明らかに無理な仕事の強制は人事権濫用
上司からパワーハラスメント(パワハラ)を受けた、という相談が増えています。しばしば問題になるのは、仕事や異動を命じられた場合、それが上司として本来持つ権限に基づいていたとしても、パワハラに当たるかどうかです。
厚生労働省のワーキンググループは今年1月、パワハラを「職務上の地位や人間関係などの職場内の優位性を背景に、業務の適正な範囲を超えて、精神的・身体的苦痛を与える、または職場環境を悪化させる行為」と定義しました。
暴行、脅迫、ひどい暴言、仲間外し、無視などは当然パワハラになります。さらに明らかにやらなくていいことや不可能なことを強制したり、能力や経験が足りないのに無理な仕事を命じたりすることもパワハラに当たります。よって上司の権限で命じたとしても、場合によっては違法なパワハラと認められます。
最近注目されたのは、オリンパス社員の訴えに対し、東京高裁が昨年8月に出した判決です。
40代後半の営業職の社員が、上司らの不適切な行為をコンプライアンス室に内部通報しました。すると上司らは、経験や能力とかけ離れた高度な専門性が必要な技術部門に配転させました。高い業務目標を設定させ、「社外接触禁止命令」も出しました。
この社員が目標を達成できなかったとして、評価を著しく低くし、別の部門へ2回目、3回目の異動を命じました。さらに新入社員同様の勉強と試験のほかに仕事がない状況に追い込み、「○○君教 計画」と題した文書を配るなどのパワハラを続けました。
東京地裁は異動命令を有効としましたが、東京高裁は3回の異動命令すべてを人事権の濫用と認定。昇格・昇級の機会を事実上失わせ、人格的評価をおとしめる不法行為だと認めました。1回目の異動後のパワハラについても不法行為と認め、会社と上司に220万円の賠償を命じまいた。
上司としての命令や指導であっても、限度を超えたら違法と認められる場合があります。一人で悩まず、専門家に相談しましょう。(弁護士。板倉由実)
厚生労働書の「職場のいじめ・嫌がらせ問題に関する円卓会議ワーキング・グループ報告」によれば、パワハラの定義は以下のようになる。
http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r98520000021i2v-att/2r98520000021i4l.pdf
○ 「いじめ・嫌がらせ」、「パワーハラスメント」は、労働者の尊厳や人格を侵害する許されないものであるが、とりわけ、職務上の地位や人間関係を濫用して意図的に相手をいじめたり、嫌がらせを行ったりすることは許されるものではない。また、そのような意図はなくとも、度の過ぎた叱責や行き過ぎた指導は、相手の人格を傷つけ、意欲や自信を失わせ、さらには「いじめ・嫌がらせ」、「パワーハラスメント」を受けた人だけでなく行った人も自分の居場所が失われる結果を招いてしまうかもしれない。
まるで、橋下市長の「蛮行」を想定しているかのような定義と文章である。彼の手法は難波版「パワハラ」ではないだろうか?
念のために断わっておくが、伝えられている大阪市の職員の「犯罪行為」を免罪するものでないことは当然だ。これは大阪市職員だけの問題ではない。公務員であろうがなかろうが、「犯罪行為」が問題であることは言うまでもない。
さて、そこで「パワハラ」まがい?の「蛮行」を正当化する橋下市長の論理についてだ。大阪市議会本会議における共産党市議とのやりとりなどをみると、形式論理オンパレードというか、機械的解釈論に終始しながら、「ああ言えば、こう言う」式の、しかも人の意見を曲解し、討論の相手をなじる、非常に無礼な、人としてあるまじき発言が多いことに、改めて気付く。不思議な性格をもった人間が首長になったものだ。
そこで、彼の論理は大まかに言うと、以下のようになる。
1.選挙で当選したのだから、「民意」に従っている。決定できる民主主義を実行する。
2.税金でメシを食っている公務員は国や行政のルールに従え。
だが、橋下市長の「民意」論を踏まえたとして、住民は橋下市長に「何でもアリ」という切符を与えてはいないのである。
確かに市長選挙では彼は勝った。だが、それが、即「民意」を代表してはいない。
昨年の市長選挙をみてみよう。
橋下氏は750,813票(58.5%)を獲得した。平松氏は522,641(40.7)だ。当日の投票有権者は1,282,733(60.92)だ。これだけを見れば橋下氏は「勝利」した。だが「落とし穴」がある。当日の大阪市の有権者は2,104,977人ということを、彼は意図的に黙殺しているのだ。そのことは後で言う。
橋下氏は有権者比でいうと、35.7%の有権者の支持しか得ていないのだ。1,354,164人(64.3%)の有権者は橋下氏を支持はしていないのだ。彼には投票していないからだ。
こうした現実を意識しているのか、「民意」を曲解している。彼は「自分の意見と異なる結果が出ても、それでも国民投票の結果に従う。これが決定できる民主主義だと思う。9条問題はいくら議論しても国民全員で一致はあり得ない」と述べながら、さらに「決定できる民主主義」のために「憲法改正の項目で、改憲の発議要件を衆参両院の3分の2から2分の1の賛成に緩和する」(「産経」2月24日)と述べ、自分の都合の良い「民主主義」観「民意」観を述べている。確かに「国民全員で一致はあり得ない」琴は事実だ。だが政治家が、これを言ってしまったら、「多様な民意を切り捨てますよ」ということを表明しているようなものだ。民主主義は「合意」だ。その「民意の合意」を粘り強く展開するのが「政治家」だ。
だが彼は「自分の意見と異なる結果が出ても、それでも国民投票の結果に従う。これが決定できる民主主義だと思う」と一見すると民主主義を尊重するかのように言っているが、「改憲の発議要件を衆参両院の3分の2から2分の1の賛成に緩和する」と、「緩和」とは聞こえが良いが、「民意」のハードルを低くしてしまっている。
ここに彼の「民意」観がよく出ている。「国民全員」という言葉を使うことで「そうだよな」「どうせ一致できないよな」という感情を呼び起こし、自論に同意を求めている。政治家が国民の「最大公約数」「合意形成」を意識しないということは、その先に何があるか、明瞭だ。だからハードルを低くしてしまうのだ。
彼は選挙で当選したことをもって彼を支持した有権者35.7%を「民意」として、ことあるごとに強調し、委任されたとして政策の実行を迫っている。だが彼の発想からすると64.3%の有権者は「民意」ではないのだ。その理屈は「全員が一致なんてできないから」という論理・思想、言い訳が用意されていることからも判る。
こうした発想は、どのような経過から形成されたのだろうか?一つだけ例をあげおこう。
ある友人の教師を思い出した。それは憲法第9条の学習の時に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とあるが、「この言葉の裏にどんな意味が込められているか」と生徒に尋ねたところ、プリントのウラを覗いたという。或いは「この文言の行間に何が意図されているか」と訊いたところ、「何も書いてありません」と。
笑い話のようだが、生徒の対応には、現代教育の実態がよく出ていると思う。だが橋下市長の発想も同様だろう。これは大阪市議会における質疑のなかで、中田市長の政策を参考にしろと言ったり、特別顧問の意見ではなく、諮問機関の声を訊けと言ったりどっちなんだといった発言が、そのことを端的に示している。
次に「ルールを守れ」について、だ。「ルール」を「遵守」しなければならないのは、彼に他ならない。何故ならば、彼は市長、これも「その他公務員」だ。すでに触れたが憲法99条を尊重すべきなのだ。
彼は「条例」によって公務員に「ルール」を強制し、人権侵害を正当化している。だが、日本国憲法は、「国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」(第98条)とあるように、「条例」は憲法の上位に位置しない。
しかも最高裁判決は「命令」に対して「人権侵害可能」という切符を与えてはいない。パワハラにして然りだ。
もう一つ紹介しておこう。国際法の到達点についてだ。「違法な命令」「人道違反の命令」「人権侵害の命令」に対して「公務員」であっても従う必要はないというのが国際的到達点だ。むしろ「(国民)全体の奉仕者」としては、「人権侵害の命令」を拒否するのは国民のためには当然のことしなければならないのだ。具体的にあげておこう。
世界人権宣言1948年(昭和23)12月10日国連総会決議217(Ⅲ)
第一条
すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。
第十八条
すべて人は、思想、良心及び宗教の自由に対する権利を有する。この権利は、宗教又は信念を変更する自由並びに単独で又は他の者と共同して、公的に又は私的に、布教、行事、礼拝及び儀式によって宗教又は信念を表明する自由を含む。
第十九条
すべて人は、意見及び表現の自由に対する権利を有する。この権利は、干渉を受けることなく自己の意見をもつ自由並びにあらゆる手段により、また、国境を越えると否とにかかわりなく、情報及び思想を求め、受け、及び伝える自由を含む。
宗教または信念に基づくあらゆる形態の不寛容および差別の撤廃に関する宣言(抄)
1981年11月25日 国連総会採択
第1条 1すべての人は、思想、良心および宗教の自由についての権利を有する。この権利には、自ら選択する宗教またはいかなる信念でもそれを有する自由、ならびに、単独でまたは他の者と共同しておよび公的または私的に、礼拝、儀式、行事および布教によってその宗教または信念を表明する自由を含む。
2何人も、自ら選択する宗教または信念を有する自由を侵害するおそれのある強制を受けない。
3.宗教または信念を表明する自由については、法律で定める制限であって公共の安全、公の秩序、公衆の健康もしくは道徳または他の者の基本的権利および自由を保護するために必要なもののみを課することができる。
以上、国際法の一端を垣間見るだけでも、弁護士の橋下氏が、市長としても、弁護士としても相応しくないか、示している。
彼の論理を、一つひとつ、分析し、これを支持している世論に対して、異なる見方もあるのだということを噛み合うように提起していく必要があると思う。
橋下「維新の会」に対する「期待」が多いだけに、このことは焦眉の課題だろう。
「自民もダメ、民主もダメ、維新に」とならないようにするためには、橋下市長は良い教材だという視点で、楽しみながら日本の民主主義を探求していこうと思う。
世直しを求むる民の声あまた維新の会に何を学ばむ
働く法律相談(「朝日」夕刊 2012年3月12日)
異同事例がパワハラになることは? 明らかに無理な仕事の強制は人事権濫用
上司からパワーハラスメント(パワハラ)を受けた、という相談が増えています。しばしば問題になるのは、仕事や異動を命じられた場合、それが上司として本来持つ権限に基づいていたとしても、パワハラに当たるかどうかです。
厚生労働省のワーキンググループは今年1月、パワハラを「職務上の地位や人間関係などの職場内の優位性を背景に、業務の適正な範囲を超えて、精神的・身体的苦痛を与える、または職場環境を悪化させる行為」と定義しました。
暴行、脅迫、ひどい暴言、仲間外し、無視などは当然パワハラになります。さらに明らかにやらなくていいことや不可能なことを強制したり、能力や経験が足りないのに無理な仕事を命じたりすることもパワハラに当たります。よって上司の権限で命じたとしても、場合によっては違法なパワハラと認められます。
最近注目されたのは、オリンパス社員の訴えに対し、東京高裁が昨年8月に出した判決です。
40代後半の営業職の社員が、上司らの不適切な行為をコンプライアンス室に内部通報しました。すると上司らは、経験や能力とかけ離れた高度な専門性が必要な技術部門に配転させました。高い業務目標を設定させ、「社外接触禁止命令」も出しました。
この社員が目標を達成できなかったとして、評価を著しく低くし、別の部門へ2回目、3回目の異動を命じました。さらに新入社員同様の勉強と試験のほかに仕事がない状況に追い込み、「○○君教 計画」と題した文書を配るなどのパワハラを続けました。
東京地裁は異動命令を有効としましたが、東京高裁は3回の異動命令すべてを人事権の濫用と認定。昇格・昇級の機会を事実上失わせ、人格的評価をおとしめる不法行為だと認めました。1回目の異動後のパワハラについても不法行為と認め、会社と上司に220万円の賠償を命じまいた。
上司としての命令や指導であっても、限度を超えたら違法と認められる場合があります。一人で悩まず、専門家に相談しましょう。(弁護士。板倉由実)
厚生労働書の「職場のいじめ・嫌がらせ問題に関する円卓会議ワーキング・グループ報告」によれば、パワハラの定義は以下のようになる。
http://www.mhlw.go.jp/stf/houdou/2r98520000021i2v-att/2r98520000021i4l.pdf
○ 「いじめ・嫌がらせ」、「パワーハラスメント」は、労働者の尊厳や人格を侵害する許されないものであるが、とりわけ、職務上の地位や人間関係を濫用して意図的に相手をいじめたり、嫌がらせを行ったりすることは許されるものではない。また、そのような意図はなくとも、度の過ぎた叱責や行き過ぎた指導は、相手の人格を傷つけ、意欲や自信を失わせ、さらには「いじめ・嫌がらせ」、「パワーハラスメント」を受けた人だけでなく行った人も自分の居場所が失われる結果を招いてしまうかもしれない。
まるで、橋下市長の「蛮行」を想定しているかのような定義と文章である。彼の手法は難波版「パワハラ」ではないだろうか?
念のために断わっておくが、伝えられている大阪市の職員の「犯罪行為」を免罪するものでないことは当然だ。これは大阪市職員だけの問題ではない。公務員であろうがなかろうが、「犯罪行為」が問題であることは言うまでもない。
さて、そこで「パワハラ」まがい?の「蛮行」を正当化する橋下市長の論理についてだ。大阪市議会本会議における共産党市議とのやりとりなどをみると、形式論理オンパレードというか、機械的解釈論に終始しながら、「ああ言えば、こう言う」式の、しかも人の意見を曲解し、討論の相手をなじる、非常に無礼な、人としてあるまじき発言が多いことに、改めて気付く。不思議な性格をもった人間が首長になったものだ。
そこで、彼の論理は大まかに言うと、以下のようになる。
1.選挙で当選したのだから、「民意」に従っている。決定できる民主主義を実行する。
2.税金でメシを食っている公務員は国や行政のルールに従え。
だが、橋下市長の「民意」論を踏まえたとして、住民は橋下市長に「何でもアリ」という切符を与えてはいないのである。
確かに市長選挙では彼は勝った。だが、それが、即「民意」を代表してはいない。
昨年の市長選挙をみてみよう。
橋下氏は750,813票(58.5%)を獲得した。平松氏は522,641(40.7)だ。当日の投票有権者は1,282,733(60.92)だ。これだけを見れば橋下氏は「勝利」した。だが「落とし穴」がある。当日の大阪市の有権者は2,104,977人ということを、彼は意図的に黙殺しているのだ。そのことは後で言う。
橋下氏は有権者比でいうと、35.7%の有権者の支持しか得ていないのだ。1,354,164人(64.3%)の有権者は橋下氏を支持はしていないのだ。彼には投票していないからだ。
こうした現実を意識しているのか、「民意」を曲解している。彼は「自分の意見と異なる結果が出ても、それでも国民投票の結果に従う。これが決定できる民主主義だと思う。9条問題はいくら議論しても国民全員で一致はあり得ない」と述べながら、さらに「決定できる民主主義」のために「憲法改正の項目で、改憲の発議要件を衆参両院の3分の2から2分の1の賛成に緩和する」(「産経」2月24日)と述べ、自分の都合の良い「民主主義」観「民意」観を述べている。確かに「国民全員で一致はあり得ない」琴は事実だ。だが政治家が、これを言ってしまったら、「多様な民意を切り捨てますよ」ということを表明しているようなものだ。民主主義は「合意」だ。その「民意の合意」を粘り強く展開するのが「政治家」だ。
だが彼は「自分の意見と異なる結果が出ても、それでも国民投票の結果に従う。これが決定できる民主主義だと思う」と一見すると民主主義を尊重するかのように言っているが、「改憲の発議要件を衆参両院の3分の2から2分の1の賛成に緩和する」と、「緩和」とは聞こえが良いが、「民意」のハードルを低くしてしまっている。
ここに彼の「民意」観がよく出ている。「国民全員」という言葉を使うことで「そうだよな」「どうせ一致できないよな」という感情を呼び起こし、自論に同意を求めている。政治家が国民の「最大公約数」「合意形成」を意識しないということは、その先に何があるか、明瞭だ。だからハードルを低くしてしまうのだ。
彼は選挙で当選したことをもって彼を支持した有権者35.7%を「民意」として、ことあるごとに強調し、委任されたとして政策の実行を迫っている。だが彼の発想からすると64.3%の有権者は「民意」ではないのだ。その理屈は「全員が一致なんてできないから」という論理・思想、言い訳が用意されていることからも判る。
こうした発想は、どのような経過から形成されたのだろうか?一つだけ例をあげおこう。
ある友人の教師を思い出した。それは憲法第9条の学習の時に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」とあるが、「この言葉の裏にどんな意味が込められているか」と生徒に尋ねたところ、プリントのウラを覗いたという。或いは「この文言の行間に何が意図されているか」と訊いたところ、「何も書いてありません」と。
笑い話のようだが、生徒の対応には、現代教育の実態がよく出ていると思う。だが橋下市長の発想も同様だろう。これは大阪市議会における質疑のなかで、中田市長の政策を参考にしろと言ったり、特別顧問の意見ではなく、諮問機関の声を訊けと言ったりどっちなんだといった発言が、そのことを端的に示している。
次に「ルールを守れ」について、だ。「ルール」を「遵守」しなければならないのは、彼に他ならない。何故ならば、彼は市長、これも「その他公務員」だ。すでに触れたが憲法99条を尊重すべきなのだ。
彼は「条例」によって公務員に「ルール」を強制し、人権侵害を正当化している。だが、日本国憲法は、「国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」(第98条)とあるように、「条例」は憲法の上位に位置しない。
しかも最高裁判決は「命令」に対して「人権侵害可能」という切符を与えてはいない。パワハラにして然りだ。
もう一つ紹介しておこう。国際法の到達点についてだ。「違法な命令」「人道違反の命令」「人権侵害の命令」に対して「公務員」であっても従う必要はないというのが国際的到達点だ。むしろ「(国民)全体の奉仕者」としては、「人権侵害の命令」を拒否するのは国民のためには当然のことしなければならないのだ。具体的にあげておこう。
世界人権宣言1948年(昭和23)12月10日国連総会決議217(Ⅲ)
第一条
すべての人間は、生れながらにして自由であり、かつ、尊厳と権利とについて平等である。人間は、理性と良心とを授けられており、互いに同胞の精神をもって行動しなければならない。
第十八条
すべて人は、思想、良心及び宗教の自由に対する権利を有する。この権利は、宗教又は信念を変更する自由並びに単独で又は他の者と共同して、公的に又は私的に、布教、行事、礼拝及び儀式によって宗教又は信念を表明する自由を含む。
第十九条
すべて人は、意見及び表現の自由に対する権利を有する。この権利は、干渉を受けることなく自己の意見をもつ自由並びにあらゆる手段により、また、国境を越えると否とにかかわりなく、情報及び思想を求め、受け、及び伝える自由を含む。
宗教または信念に基づくあらゆる形態の不寛容および差別の撤廃に関する宣言(抄)
1981年11月25日 国連総会採択
第1条 1すべての人は、思想、良心および宗教の自由についての権利を有する。この権利には、自ら選択する宗教またはいかなる信念でもそれを有する自由、ならびに、単独でまたは他の者と共同しておよび公的または私的に、礼拝、儀式、行事および布教によってその宗教または信念を表明する自由を含む。
2何人も、自ら選択する宗教または信念を有する自由を侵害するおそれのある強制を受けない。
3.宗教または信念を表明する自由については、法律で定める制限であって公共の安全、公の秩序、公衆の健康もしくは道徳または他の者の基本的権利および自由を保護するために必要なもののみを課することができる。
以上、国際法の一端を垣間見るだけでも、弁護士の橋下氏が、市長としても、弁護士としても相応しくないか、示している。
彼の論理を、一つひとつ、分析し、これを支持している世論に対して、異なる見方もあるのだということを噛み合うように提起していく必要があると思う。
橋下「維新の会」に対する「期待」が多いだけに、このことは焦眉の課題だろう。
「自民もダメ、民主もダメ、維新に」とならないようにするためには、橋下市長は良い教材だという視点で、楽しみながら日本の民主主義を探求していこうと思う。
世直しを求むる民の声あまた維新の会に何を学ばむ