愛国者の邪論

日々の生活のなかで、アレ?と思うことを書いていきます。おじさんも居ても立っても居られんと小さき声を今あげんとす

あまりに単純すぎる橋下市長は現代社会の思考の典型?それとも特異な持ち主?沈殿物を吐き出させたら・・・

2012-03-18 | 日記
大阪府教育委員会、「朝日」に噛み付く橋下市長の狙いは、まさに「ルールオブロウ」を利用して市長の意のままに動く組織と人間をつくろうとしている。
批判者に対して浴びせる極端な言葉と、繰り返されるウソ、スリカエ、ネジマゲが、そのことを示している。

だが、橋下市長の腹の中の奥深い所に沈殿しているすべてのものをできるだけ早く揺れ動かし衆目にとまるようにしていかなければ。

マスコミは、彼の化けの皮が剥がれることをこれまでと同様にできるだけ妨害するだろう。だからこそ国民的メディアが必要になってくるのだろう。その中でこそ、自民もダメ、民主のダメ、維新もダメ、国民の政権ができるのだろう。瑞穂の国の春が到来することになる。

そこで、3月17日と18日の「橋下市長のつぶやき」と朝日の社説「大阪の卒業式―口元寒し斉唱監視」(16日付)について、検討してみた。今日は、昨日とは違ったまとめ方をしてみた。長くなったのは、とんでもないことを色々とつぶやいているからだ。仕方ない!次は短くなるようにしたいものだ。

1.橋下式「民主主義」「ルール」観について、橋下語録から

(1)民主主義の原理原則は、議論を尽くした上で多数決で決める。そして反対論者もそれに従う。
(2)ルールを守っていくのが行政組織。そのためには、とことん細かなチェックをするのが当然の使命。行政はルールをしっかり守っていく、守らせていくことが使命である。
(3)入試は、他人の答案を見てはいけないというルールだ。だから学校側は監視する。当り前だ。ルールが決まった以上、それを監視するのは当り前。教育の場で監視そのものがおかしいなら、なぜ入試では子どもたちを監視するのか。
(4)一部メディアが勘違い批判をしているだけで、有権者の多くは、ルール違反の教員を非難している。
(5)もしそのチェックが悪いと言うなら、ルール自体を変えなければならない。それは監視の問題ではない。監視が悪いと言うなら、世の中、行政など成り立たない。

問題点の検討は以下のとおり
(1)手続き一辺倒の民主主義だな。橋下式民主主義はジャンケン型民主主義と呼んでおこう。橋下式民主主義観は「小学生的」民主主義観だ。こういう発想を堂々と言える、支持されるという現状そのものが、日本の教育の弱点を浮き彫りにした。
(2)だが、大いなるごまかしがある。民主主義は決定に至るプロセスが重要だが、「議論を尽くした上で」「正当な手続き」の内容がいっさい語られていない。ここに「民主」の入る余地はない。形式重視だからだ。
(3)思想信条を問わない入試のカンニングを禁止する「監視」と「ルール」をわざわざ引き合いに出して、「ルール違反」の人権侵害を「多数決」で条例化(=ルール化)し、それを厳守するための「監視」を正当化している。この発想に橋下市長の論理矛盾、思想の本質が滲み出ている。
(4)橋下市長の正当化の最大の拠り所・根拠は、「議会」で「議論を尽くして」成立した「ルール」だから「行政」は「細かなチェックをする」「守らせていくことが使命」だと正当化している。これは「批判は許さない」ということだ。意見表明権、表現の自由などの人権侵害を拒否する権利などはいっさい認めないというのだ。
(5)行政の「監視が悪いと言うなら、世の中、行政など成り立たない」と飛躍させ、正当化。行政の「使命」は「とことん細かなチェックをする」と行政の仕事を一面化し矮小化し、「世の中、行政など成り立たせるためには監視が必要」と恐るべき論理と思想を述べている。
(6)橋下式民主主義観は地方自治の本旨を都合よく解釈し、住民の人権と要求すら無視するのだ。
・「住民の福祉の増進を図ることを基本」「地域における行政を自主的かつ総合的に実施する役割を広く担うものとする」(地方自治法第1条)とあるように行政の「役割」は多様なものだ。
・「住民は、法律の定めるところにより、その属する普通地方公共団体の役務の提供をひとしく受ける権利を有し、その負担を分任する義務を負う」(地方自治法第10条)という「ルール」があるように、行政は住民要求を政策化し、議会に提案し、執行するのが最大の「使命」だ。
・行政が「住民の福祉の増進を図ることを基本として」いるかどうかを「監視」するために選挙に参与する権利(第十一条)、条例の制定又は改廃を請求する権利(第十二条1)、事務の監査を請求する権利(第十二条2)、議会の解散を請求する権利(第十三条1)、議会の議員、長、副知事若しくは副市町村長、選挙管理委員若しくは監査委員又は公安委員会の委員の解職を請求する権利(第十三条2)、教育委員会の委員の解職を請求する権利(第十三条3)などの「権利」を「ルール化」して橋下市長の言うように「決まったルール」を絶対視していないのだ。
(7)だが、逃げ道も用意している。「チェックが悪いと言うなら」、また「ルール」を変えたければ、「議会」で変えろということだ。変えていないのだから「ルールに従え」「監視は当然」なのだと、「問題アリ」とする声に耳を傾けることを拒否して人権侵害を正当化している。

2.マスコミによって育てられた橋下民主主義観を「処分」によって世に問う傲慢さ~橋下語録から~
(1)2002年に起立斉唱の職務命令も既に出していた。にもかかわらず教育現場が教育委員会の決定、職務命令を守らないから大阪維新の会が条例で後追いしたのである。
(2)今回の口元チェックの問題は、つまるところ、君が代起立斉唱条例、教育委員会の職務命令の是非となる。
(3)その条例を府議会で正当な手続きで成立させ、大阪府教育委員会が府立高全教員に起立斉唱の職務命令を出した。命令です。
(4)そして府教委は全府立高校長に、起立斉唱の状況確認の報告を求め・・・中原校長はそれを忠実に守っただけであるし、彼のブログにもあるように卒業式の雰囲気が乱れない最大の工夫をこらした。中原校長の監視がおかしいという議論は、完全に間違っている。おかしさを言うなら起立斉唱条例、教育委員会の職務命令である。

問題点の検討は以下のとおり
(1)橋下市長は重大なミスをしてしまったな。
(2)何故ならば「職務命令を守らないから大阪維新の会が条例で後追いし」したと述べ、「国旗」「国歌」になった「日の丸」礼拝と「君が代」斉唱が貫徹しているかどうかを「チェック」したのだな。「つまるところ」と言ってホンネを吐露しているのだが、「口元チェック」によって条例と命令の正当性(「是非」と言っているが)を世に問いかけたのだ。
(3)ということは、橋下式ルール観からすれば、起立斉唱しないで、条例と命令の正当性(是非)を世に問うこともあり得るということになるな。
(4)国旗である「日の丸」と国歌である「君が代」は橋下市長の「命令」のための「踏絵」に使っているのだな。
(5)そもそも「日の丸」「君が代」なんか、どうでも良いのだ。では「口元チェック」の前の卒業式はどうだったかだ。「国旗」礼拝、「国歌」斉唱なんてなくても「卒業式の雰囲気が乱れ」ることなんかないのだ。今の学校現場は。

3.橋下式民主主義観にみる処分優先政治のカラクリ~橋下語録から~

(1)政治の場は前者(決定できる民主主義で51%を尊重する)。多数の意見を尊重するのが原則だ。
(2)司法の場は後者(戦後の自称インテリたちのファッションであった49%の反対を永遠に尊重しろ)。最近の最高裁、司法の場は頼もしい。徹底して被告人・個人の権利を擁護する。
(3)もちろん個人は司法で救われる機会がある。日本の司法は付随的審査制。
(4)このような政治行政と司法のバランスで世は統治を維持できる。
(5)不起立教員が司法で争える機会を与えるためにも、きっちりと処分をしなければならない。
(6)多数決に従わなくて良いと言うなら、それは消費税論議でも同じだ。民主党の49%は従わなくてもよいはずだ。もちろん、教員と政治家は異なるが、消費税に反対する国民は多数に従わなくても良いことになる。

問題点の検討は以下のとおり
(1)多数の意見を尊重する政治には、決定できる民主主義が必要で、少数者の意見は司法が担当するので、政治行政は、少数者の意見は尊重しなくても良い。このような政治行政と司法のバランスが取れて世の中は統治を維持できる、成り立つと驚くべき論法だ。
(2)不起立教員など、「ルール違反の教員」を「処分」するのは「司法で争える機会を与えるため」だと言ってしまった、しかもしかも政治の分野では「きっちりと処分」をして「司法に救われる機会」に送り込む。この「バランス」で「世」の「統治を維持」するのだと。呆れる!
(3)また「監視がおかしい」なら、校長ではなく、それは条例であり、教育委員会だと校長を弁護する。だからこそ、世に問うために不起立不斉唱をやっているのだとしたら、どうか、だな。
(3)政治結社である民主党の49%は分裂する自由をもっている。事実分裂しているし、「維新の会」に集まってきた輩も、自民党などから抜け出してきた政治家(や)だったのではないか?
(4)「消費税増税に反対する国民は多数」なのに、国会で「議論を尽くした上で多数決で決」まれれば、消費税を拒否することはできない、支払わなければならない。「支払いたくなければ物を買うな」ということになるな。橋下式民主主義観では。

4.朝日批判を通して狙うもの~橋下語録から~

(1)君が代起立斉唱を決めたのは、朝日新聞が礼賛する大阪府教育委員会である。
(2)朝日は(大阪維新の会の起立斉唱条例が成立する前に)教育委員会が出していたこの(2002年に起立斉唱)決定や(不起立教員に)職務命令には何も批判しない。
(3)朝日新聞は起立斉唱がおかしいと言うなら、2002年に府教育委員会の決定とその後の職務命令を徹底批判したらいい。しかしそれはできないはずだ。それこそ教育の専門家の集団である教育委員会が決定したことだから。
(4)教育委員会の決定を批判し、府議会の条例をひはんしたら、それこそ民主主義でなくなる。朝日新聞の独裁社会になる。
(5)住民の代表者である府議会が条例を制定したら猛反発。教育委員会と言う行政機関がやることは全て正しい。しかし政治家が決めることは間違っていると言う、政治が大嫌いの朝日らしい。朝日新聞は、世間が味方に付いてくれるであろう府議会批判、政治家批判にターゲットを絞った。
(6)民主党は消費税はマニフェストに記載していなかった。そして党内で反対論が強い中、51%の賛成でも突破せよと言う。維新の会はマニフェストに君が代斉唱条例のことは書いていなかったからおかしい。もっと議論せよ。反対会派がある。
(8)朝日新聞は教育委員会を一切批判せず条例だけを批判。では大阪維新の会の起立斉唱条例を朝日新聞は批判する資格があるのか。
(10)朝日新聞は、結局のところ、自分たちの価値観に合うもの(消費税)は51%の賛成でも突破せよ。そして自分たちの価値観に合わないもの(君が代条例)は49%の反対を尊重せよと言う論。
(11)昨日の社説では51対49の覚悟を示せと、決定できる民主主義に賛同する。議論を尽くしてもそれでも結着が付かない時には51%での賛成で突破せよと言う。そして朝日の大転換と言える昨日の51%の賛成で突破せよの社説。しかし朝日もぐらついていますね。君が代条例になれば今度は少数を尊重せよとなる。
(12)決定できる民主主義で51%を尊重するのか。戦後の自称インテリたちのファッションであった49%の反対を永遠に尊重しろか。

問題点の検討は以下のとおり
(1)消費税増税推進派の「朝日」、日の丸・君が代強制に対して憲法に基づく人権問題として論を展開する点で甘い「朝日」の曖昧な姿勢の部分を批判するのは、正しい。
(2)だが、「政治家批判にターゲットを絞っ」てきた「維新の会」をこれまで持ち上げてくれていた「朝日」が「口元チェック」を社説で批判したので、今度はお得意の悪罵を投げつける攻撃に転じたとしか言えない内容だ。
(3)朝日は社説で「君が代の起立斉唱は、良心や歴史認識の問題ではなく、公務員として守るべきルールであり、マネジメントのあり方だという主張を繰り返している。しかし、そもそも卒業式で口元を監視することが優れたマネジメントといえるのだろうか」と橋下市長の手法に疑問を投げかけ、「個人の歴史観で見解が分かれる君が代をめぐり、最高裁は職務命令で起立斉唱を強制することに慎重な考慮を求めている」と最高裁判決を紹介し、対策を提起しているが、橋下市長の本質がわかっているのだろうか。
(4)職務命令を出してきた教育委員会を批判しなかった朝日が今回の「口元チェック」を批判したことがよほど気に食わなかったのだろう。「政治が大嫌いの朝日らしい」「朝日新聞の独裁社会になる」など、お得意の乱暴な言葉をつかってスリカエ朝日を攻撃している。これが橋下市長の本質だ。
(5)少数の人間の心を侵害することに何の疑問を持たない多数決優先主義者の橋下市長にとって、朝日の提起を、消費税は多数決主義を主張し、君が代条例は少数意見尊重主義と解釈し、「結局のところ」「自分たちの価値観」に「合うもの」「合わないもの」と歪曲している。
(6)「良心や歴史認識の問題」「個人の歴史観」を多数決で決めるという多数決優先主義に凝り固まった橋下市長には、少数意見の尊重を「自称インテリたちのファッション」と揶揄することしかできないし、「49%の反対」を「永遠に尊重しろ」などとスリカエテながら「朝日もぐらついて」いるという程度の認識、解釈しかできないのだ。

5.橋下市長の教育観と「ルール」について、その狙いは~橋下語録から~

(1)日本は世界に誇れるほどの価値多様な社会。教員の思想も色々あるだろう。色々な考えを子どもに教えるのは良い。
(2)教育現場こそ一般社会から距離がある世界。しかも教員も社会経験が少ない人も多いし、一般の価値観とは全く異なる価値観が蔓延している世界でもある。もちろん立派に頑張っている教員も多い。
(3)しかし独り善がりの価値観はダメだ。教員の独り善がりの思想で子どもが毒される危険が非常に高い。だからこそ一定のルールを設けなければ、子どもが不利益を受ける。教育現場こそ、子どもを扱う場であるがゆえに一定のルールが必要。校長はそのルールを守らせる責任がある。
(4)昔のように教員に全てを任せるという時代ではない。教員にルールが必要なのだ。教育の現場だからということで治外法権になってしまう今の教育行政。子どもを管理するのではない。
(5)世の中にルールがなくなるのは理想の世界だ。皆が他人に不利益を与えず、皆が同じ価値観で生きていける桃源郷。しかしそんな世界はあり得ない。教育現場になると急に関係者皆が理想の神のような存在であるという前提に立つ。そんなわけがない。人が集まればルールが必要。そしてそのルールを守らせる監視が必要。このアホみたいに当然の原理原則は教育現場にも当然当てはまる。
(6)だからこそ最低限のルールはしっかりと定めて、校長中心にしっかりとマネジメントをしてもらわなければならない。校長は教育者でありながら教育行政を司る行政職員の一員である。だからこそ、ルールを守らせる監視役も負う。校長はそのルールを守らせる責任がある。校長が教員の口元監視を式に影響しない方法で数秒確認し、後から本人が斉唱していなかったことを認めた一名のみを教育委員会に報告した。どこに非難される点があるのか。まず監視がやり過ぎだ!との声が多いが、悪いのはルールを破った方だ。監視をした方ではない。監視をしなくても良いように皆がルールを守れば良いだけだ。
(7)ルール自体の責任者である教育委員会の委員長が監視方法を非難したと言うのは全く理解できない。大阪府の教育委員会は、大阪府の条例を守れなかった自分たちの責任を痛感すべきなのに、全くその認識がない。教育委員会が行政の当事者の認識がなく、外部有識者の感覚なのだろう。今の教育委員会制度の問題点がはっきりと浮き彫りになった。そして教育の現場でそこまで監視しなくてもという反対意見。現在の教育委員会は当事者意識がなく行政を仕切れる機関とはなっていない。
(8)今回の口元監視の議論は、子どもたちへの監視はいくらやっても良い。しかし教員への監視は一切ダメだという、教員絶対的自由論の流れ。これは評価問題でも同じ。教員を相対評価しようとしたら、教育現場は猛抵抗。教員を輪切り評価なんてできないと。1万人に1人しか最低のDが付かない今の教員評価が機能していると言えるわけがない。
(9)そのくせ、大阪の子どもたちは、内申書できっちりと10段階評価を受ける。それこそ、8と7の違いは?7と6の違いは?基準なんてあるわけないし、テストの点数だけで評価していたら、それこそ教員が自分たちの相対評価で文句を言う「点数だけで評価するな!」がそっくりそのまま当てはまる。4と3の違いは何か。何を基準に5段階で評価するのか。まあ教員は自分たちの身分のことになれば必死になって反発して、今の一般常識では考えられない甘い評価を守ろうとする。

問題点の検討は以下のとおり
(1)「ルール」「ルール」というが、その中身をいっさい語らないのが橋下型民主主義観だ。「悪法も法」だな。
(2)朝日には「府教育委員会の決定とその後の職務命令を徹底批判できないはずだ。それこそ教育の専門家の集団である教育委員会が決定したことだから」と言っておきながら、「口元チェック」を批判した「教育委員会は当事者意識がなく行政を仕切れる機関とはなっていない」「外部有識者の感覚なのだろう。今の教育委員会制度の問題点がはっきりと浮き彫りになった」と攻撃するのだ。この手法は橋下市長にとって一貫したスタンスだ。
(3)「教育現場こそ一般社会から距離がある世界」「しかも教員も社会経験が少ない人も多い」「教員の独り善がりの思想で子どもが毒される危険が非常に高い」「一般の価値観とは全く異なる価値観が蔓延している世界」だし、「教育委員会は当事者意識がなく行政を仕切れる機関とはなっていない」から「独り善がりの価値観はダメ」「だからこそ一定のルールを設けなければ、子どもが不利益を受ける。教育現場こそ、子どもを扱う場であるがゆえに一定のルールが必要。校長はそのルールを守らせる責任がある」として「世界に誇れるほどの価値多様な社会」と日本を評した言葉の裏腹に教育現場を短絡的に評価している。全く事実を見ない暴論だ。
(4)万歩譲って、教育現場が橋下市長のような状況であったとしたら、それはどのような要因があったのだろうか?全く事実を見ていない。「校長中心にしっかりとマネジメント」優先主義のものさしであるが故からくる決めつけと言える。逆に言えば、「校長中心にしっかりとマネジメント」ができれば、「子どもが不利益を受ける」ことはないのか?ウソだろう!
(5)橋下市長のウソは、さらに上塗りされていく。「口元監視の議論は、子どもたちへの監視はいくらやっても良い。しかし教員への監視は一切ダメ」「基準なんてあるわけない」「10段階評価」を「大阪の子どもたちは、内申書できっちり」とやってきた。「そのくせ」「教員が自分たちの相対評価で文句を言う」「点数だけで評価するな!」「教員は自分たちの身分のことになれば必死になって反発して、今の一般常識では考えられない甘い評価を守ろうとする」と「立派に頑張っている教員も多い」と言いながら、教員を攻撃するのだ。
(6)このウソの目的は何か。「監視をしなくても良いように皆がルールを守れば良いだけだ」といっさいの批判を認めないのだが、逆に言えば、橋下式民主主義的ルールを守れば、教育現場の問題は改善できるのか、子どもに利益を与えることができるのか?子どもに最善の利益を与えるのであれば「子どもの権利条約」をすべての学校現場に具体化しなければならないのだが、橋下市長の発想には国際法である「子どもの権利条約」は、全く想定できていない。
(7)この子どもの権利条約を想定していない証拠がある。それは「教育の自由」「教育の政治的中立」の原則を「治外法権ではない」として、「維新の会」の政治思想を、いや「維新の会」の後ろ盾になっている「勢力」の思想と既得権益を「ルール化」し、その「ルール」を守らせるため、校長の監視を正当化・強化し、橋下市長にひれ伏す公務員をつくろとうしていることだ。まさに近代の教育史を見ぬアホな思想だ。

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