愛国者の邪論

日々の生活のなかで、アレ?と思うことを書いていきます。おじさんも居ても立っても居られんと小さき声を今あげんとす

現行憲法が気に入らない勢力がオームのごとく繰り返す「押し付け」論のウソを斬る!

2012-05-04 | 憲法

昨日の全国紙の一部にある「おしつけ」論にもとづく憲法改悪論について、地方紙などをもとに、別の視点から再度検討してみよう。以下関係している部分を一覧してみる。

産経」 占領下で日本無力化を目的に米国から強制された格好の現行憲法では、もはや日本が立ちゆかなくなるとの危機感が共有されてきたためだ。 憲法施行65年の今日、はっきりしたことがある。それは自国の安全保障を他人任せにしている憲法体系の矛盾であり、欠陥だ。

読売」 憲法が、連合国軍総司令部(GHQ)の案を基に作成されたことは周知の事実である。自民党が2005年の草案を見直し、改めて国民的な憲法改正論議を提起したことは評価したい。

日経」 現行憲法は、わずか9日間でGHQ(連合国軍総司令部)がまとめた案がもとになっているとしても、けっこう良くできているからだ。それは、大枠を維持しながら手直しする自民党の改憲草案が、はしなくも物語っている。 最大の工事が9条であるのは論をまたない。自民党案のように自衛隊を「国防軍」と呼び、集団的自衛権の行使ができるようにしよう、というのは有力な考え方だ。・・・いま一度、1946年の憲法制定のころを思いおこしてみよう。 「私は議会の速記録や当時の新聞紙も読み、苦難の条件の下で国民が如何に心血をそそいで考慮を尽したかを察して珍しく緊張した。民族発展の前途を考えて、国民は真に血みどろの苦心をした」 憲法担当相をつとめた金森徳次郎氏が当時をふりかえって書き残した言葉である。

秋田さきがけ」 日本国憲法をあらためて読んでみた。国民主権、基本的人権の尊重、平和主義など崇高な理念は、世界に誇れるものであることを実感する。憲法施行から65年。基本理念は全うされているだろうか。憲法が目指す国家に日本は向かっているのか、逆行しているのか。

福島民報」 日本国憲法は3日で施行から65年を迎えた。法の下の平等や思想、言論の自由などを保障した。さらに25条で〈すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む〉など、社会的な権利を幅広く認める。戦後の民主国家発展の土台となってきた。

静岡新聞」 基本的人権を尊重し、全ての国民に「健康で文化的な生活」を保障した日本国憲法が65歳の誕生日を迎えた。人間でいえば前期高齢者の仲間入りだ。長生きしてもらうにせよ、思い切って生まれ変わらせるにせよ、敬う気持ちがなければせっかくの理念も色あせるばかりだ。

岐阜新聞」 日本国憲法施行から65年の記念日を迎えた。施行当時は占領下で、連合国軍総司令部(GHQ)が出す命令がすべてに優先していた。したがって、現憲法が完全な実効性を得たのは、サンフランシスコ講和条約発効で日本が主権を回復した1952年4月28日といえる。そこから数えれば、ちょうど60年だ。

福井新聞」 1945年8月15日、日本は太平洋戦争に負け、ポツダム宣言を受諾した。憲法の基はマッカーサー草案ともいわれるが、ポツダム宣言が基底にある。党憲法改正推進本部長の保利耕輔元自治相は「憲法前文の『平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しよう決意』とは、外国に依存するということ。戦争に負けた国の姿だ」と指摘する。 自民党は55年の結党以来、憲法改正を党是に掲げ、自主憲法策定を目指してきた。民主主義国家として平和主義、国民主権、基本的人権の尊重が脈打つ憲法を真っ向否定する国民はいないだろうが、議論で重要なのは「押しつけ憲法」の過去を引きずる感情論ではない。冷静に時代状況を判断しながら、多様な価値観を共有し、質の高さを求めていくべきではないか。憲法本来の目的は国家権力を制限し、国民の自由や権利の確保にあることを再認識したい。

京都新聞」 党憲法改正推進本部長の保利耕輔元文相は「憲法の基はマッカーサー草案というよりも、日本が敗戦を受諾したポツダム宣言の文章だ」とし、自衛隊は「国防軍」に改め、「国旗は日章旗、国歌は君が代」と明記する案を決めた。

神戸新聞」 施行65年。人間でいえば「高齢世代」に入る。時代の変化に対応すべきという改憲論もそのあたりを踏まえての意見であろう。憲法は戦後日本の平和や経済発展を支える基本となってきたが、「不磨の大典」のように扱うのでは、国民から遠いものになってしまう。

中国新聞」 1946年7月、憲法の条文を審議する衆議院の小委員会。森戸氏は「生存権の問題は、ぜひとも新しい憲法としては掲げなければならぬと思う」と食い下がっていた。 国民の生命、自由と幸福追求の権利を定めた13条を保障すれば十分、というのが委員会の大勢。これに対して森戸氏は「人が尊厳ある人格として承認されることを裏付けられるものだ」などと擁護した。連合国軍総司令部(GHQ)主導の政府案にはなかった権利は、この議論を経て盛り込まれた。

高知新聞」 憲法制定時、連合国軍総司令部(GHQ)の案はシンプルさを理由にした一院制だった。これに対し、日本側は二院制を主張し、全議員の公選を条件にGHQが受け入れた経緯がある。  当初は二院制がうまく機能していたといってよい。参院の無所属議員有志が政党と距離を置く緑風会をつくり、政府提出法案を否決・修正したり、独自法案を成立させたりしたのはその表れだろう。  だが、1955年体制下で参院の政党化が進み、政府提出法案の「与党事前審査制」も加わって、国会審議は形骸化した。国会は与野党対決の場と化し、行政監視機能の低下などでいまや存在意義そのものが問われている。

宮崎日日新聞」 1947年の日本国憲法施行から65年。施行当時は占領下で、連合国軍総司令部(GHQ)が出す命令がすべてに優先していた。 現憲法が完全な実効性を得たのは、サンフランシスコ講和条約発効により日本が主権を回復した1952年4月28日といえる。そこから数えれば、ちょうど60年にあたる。 これまでの歴史の中で繰り返された改憲論議には、占領軍に押し付けられた憲法を正すという民族主義的な感情が出がちだ。 しかし、提示された憲法案に「健康で文化的な最低限度の生活」(25条)や「義務教育の無償化」(26条)を当時の政治家たちは押し込んで、先進的な憲法をつくり出した。 改憲論議を考えるとともに、そんな前向きな精神も今こそ思い起こしたい。

改憲勢力の「根拠」がウソであることが判る。こうした根拠のないウソを平気で垂れ流すことができるのは、何故だろうか。このようなウソを書き立てるマスコミや政党が、恥ずかしくなるようにするためにはどのようにしたら良いのだろうか?またどのようにして国民が見放していくか、課題だろう。

さらに資料を提示しておこう。「連合国軍総司令部(GHQ)の案を基に作成された」ことをもって「おしつけ憲法」論が展開される。しかし、以下の記事をみれば、事実は全く異なっていたことが判る。

Newsweek-Banzai to MacArthur-Apr.23/1951
4月16日、日本人はマッカーサー元帥に別れを告げた。まだ肌寒い早朝、何十万人の人々が沿道にに並び、アメリ力大使館から羽田飛行場に向かうマッカーサーと夫人と子息を乗せた黒いリムジンを見送った。
殆どの人々は敬意をこめて小さな日の丸を振った。
タラップを上がり、振り返って手を振る夫妻に向かって「バンザイ」という声がかかった。
ドアが閉められプロペラが唸りをあげた。
 バターン号は離陸し、東の空へ消えて行った。こうしてマッカーサーは日本を去った。
 彼はこの国を打ち負かしただけではなかった。有望なアメリカの友人に育てあげたのである。
帰国の前日、天皇裕仁はマッカーサーを公式に訪問した。
 天皇のこうしだ方問は前例のないことだ。
国会からは感射状が贈られ、吉田首相は国民を代表して謝辞を述べた。
マッカーサー解任辞令でトルーマンが使った言葉は日本人から手ひどい批判を受けている。
意図的で悪意があると日本人は見ているのだ。
結局のところ日本人にとってこの五年間、マッカーサーはトルーマン大統領よりも近い存在だったのだ。
日本人は言う。マッカーサーの解任理由が極東政策をめぐるトルーマンとの意見の食い違いであるなら、どうして連合国最高司令官の肩書きまで奪う必要があったのか。
こうした国際状況下では、日本人に相談してくれてもよかったのではないか、と。
日本人が民主主義の原則を理解していることをマッカーサーは高く評価している。
その彼等が問うのである。「これが民主的なやり方か」と。


もう一つあげておこう。以下の国会で何が議論されたか、掲載しておこう。自民党の先輩たちが、どんなことを言っていたか、だ。

第010回国会 本会議 第30号昭和二十六年四月十六日(月曜日)  午後二時十七分開議
ダグラス・マツカーサー元帥に対する感謝決議案(佐藤榮作君外三百九十四名提出)http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/syugiin/010/0512/01004160512030a.html


第010回国会 本会議 第36号昭和二十六年四月十六日(月曜日)  午後三時十一分開議
ダグラス・マッカーサー元帥に対する感謝決議案(大野木秀次郎君外五名発議)
http://kokkai.ndl.go.jp/SENTAKU/sangiin/010/0512/01004160512036a.html


マッカーサー元帥に対する感謝決議(五一・四・一二) 日本労働年鑑 第25集 1953年版
http://133.25.177.211/rn/25/rn1953-743.html



さて「産経」は、反動的改憲案を提出した自民党の先輩たちが、マッカーサーにどのような態度をとったのかについて、現在どのような態度でいるか、以下の資料をみてみよう。
手前勝手な弁解と強弁に終始していることが判る。お得意の歴史の偽造である。

【産経抄】4月1日2012.4.1 03:09 http://sankei.jp.msn.com/life/news/120401/edc12040103100000-n1.htm


 占領下の日本を支配した連合国軍最高司令官、ダグラス・マッカーサーが解任されたのは昭和26年4月11日のことだ。国連軍最高司令官も兼ね指揮をとっていた朝鮮戦争で、中国本土などへの攻撃を主張した。このことでトルーマン米大統領と対立したためだった。 ▼16日には羽田空港から米国に帰るが、見送る日本人の「歓送」ぶりは異常なほどだった。衆参両院が感謝の決議を行い、新聞は今読めば恥ずかしくなるような賛辞を書き立てた。空港までの沿道では20万人以上が日の丸や星条旗を振ったという。 ▼マッカーサーは5年7カ月に及ぶ在任中、いわゆる戦犯の摘発や押しつけ的な新憲法制定で強権をふるった。だが多くの日本人には戦前の指導者を成敗する「正義の人」と映った。米国流の民主主義や平和主義を教えてくれた「恩人」に思えたのだろう。 ▼そんな熱が冷めやらぬ中、マッカーサーは米上院で証言する。日本が米国と戦った理由として、連合国側の経済封鎖などをあげ「主に自衛のためだった」と述べたのだ。日本を断罪してきた人の発言だけに新鮮に聞こえた。だが日本で取り上げられることはほとんどなかった。 ▼日本の戦争は侵略のためだけだったと思いたい「自虐史観」の持ち主には、受け入れがたい見解だからだ。ところがそのマッカーサー発言が61年ぶりに、東京都立高校の地理歴史教材に掲載される。正式な教科書ではないが、画期的といってもいい。 ▼実は上院での発言を初めて知ったのは16年ほど前、本紙連載の『教科書が教えない歴史』でだった。文字通り教育現場からはじき出されてきた「歴史」がようやく教材となった。桜の花一輪を見つけたような感慨を覚えた。

もう一つ紹介しておこう。

菊池久『天皇陛下とマッカーサー』(1989年1月刊河出書房新社)に「天皇とマッカーサーの心の交流」というテーマで、天皇がマッカーサーをどのように訪問して感謝の意を表明したか、書かれている。「産経」にとってみれば、「今読めば恥ずかしくなるような賛辞」を送った裕仁をどのように思うのだろうか?訊いてみたいものだ。

天皇の命助けて統治すとその理由(わけ)ひとつ岸にありとふ

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