日本版NSC設置法案が参議院で、特定秘密保護法案が衆議院で審議が始まりました。昨日の町村議員のホンネ・やらせ質疑に、本質が浮き彫りになっています。マスコミの中には、議事録作成と公開の担保を求めるものがあります。これが満たされれれば法案を容認するというものです。ところが、この論調の最大のゴマカシは歴史の事実を教訓化していないことです。
盗聴や謀略によって戦争が始まってしまえば、トンデモナイことが起こることを黙殺しているのです。柳条湖事件(満州事変)、朝鮮戦争、トンキン湾事件、直近でもイラク戦争(愛国者の邪論は湾岸戦争にしても、3.11にしても隠された情報操作によって引き起こされたのではないかと思っているのですが、このことは、今回は論じません)をみれば、その後の歴史が、どのような影響を与えたか、明らかです。
それらは、いずれも憲法の平和主義を改悪していくために最大限知利用したというのが歴史の事実です。しかし、このような視点は、アメリカの脳に侵された、自主的脳の放棄したマスコミからは、全く見えてきません。現代政治において、情報が如何に重要か、教えています。どちらが、どのような情報を国民に流すか、このことに尽きるのです。だからこそ情報を国民のものにする装置が必要なのです。しかし、アメリカの脳の土俵で相撲をとっている現代日本の社会は、極めて危険な道を歩みつつあります。アメリカに押し付けられた憲法平和主義が、アメリカ脳によって破壊されようとしているのです。
以下のニュースの日本語を検証してみれば、明瞭です。愛国者の邪論は、この頃流されるニュースを見ていて、ベトナムとはトンデモナイ国で、やっつけなければならないと、マジで思っていました。ケネディー神話にどっぷり浸かっていましたので。
【1964年8月4日】トンキン湾事件 米軍が捏造、ベトナム戦争本格介入の ...
ところが、ベトナム戦争が続く中で、北爆の映像が着たベトナムの側から放映されるようになると、違うな!と思うようになり、アメリカのベトナム政策に疑問を抱くようになったのです。しかも無辜のベトナム人を殺すために、日本が出撃基地になっている。南ベトナムの僧侶の焼身自殺の映像が流されてくるなど、二つの立場からの映像がテレビを通して知ることになり、考え方は大きく転換していくのです。特に沖縄の実態が放映されることで、同じ日本人として、これは許すことはできない、ベトナムの人たちが殺されるのを黙って見ている訳にはいかないと思うようになったのでした。
そこで以下の記事を検索してみました。ご覧ください。
北朝鮮と韓国の戦争 ~朝鮮戦争~ - ベネディクト 地球歴史館
さて、そこで、日本における逆コースに、その舵を取らせた朝鮮戦争の「発端情報」について、未だ検証が不十分のような気がします。以下の検証記事は参考になりますが、このことはほとんど無視されています。この情報戦が解明されてしまえば、自衛隊の存在そのものが問い直される、戦後史そのものが逆転するからでしょうか。自主性のない、全く不思議な国と言えます。
この朝鮮戦争ばかりではなく、ベトナム戦争にしても、イラク戦争にしても、実際に戦争が起こってしまったら、後々に情報公開によって検証されたとしても、失われた命や財産、ルールは取り戻せないのです。このことを、マスコミがどれだけ意味づけて情報公開や議事録の作成を担保しろと迫っているのでしょうか。
もし判っているとすれば、重大なスリカエ・ゴマカシ・トリックです。これは最近の偽装事件を見ても明らかです。マスコミをはじめ、世論が、この事件と、現在国会で審議されている悪法を結びつけて論じていないことです。全くアホなことです。
以上の戦争によって、憲法九条がどのように侵害されてきたか、一目瞭然です。ここにマスコミが憲法の平和主義の何たるかを、如何に理解していないか、軽視しているか、判ります。それは何故か。何故日米軍事同盟容認派になっているか、ここが最大のキーポイントです。マスコミ界の、方針作成に係る情報の公開こそ、求めるべきことかもしれません。その点でマスコミ労働者の内部告発が、今こそ求められている時ないでしょう。第二のスノーデン氏は、日本では無理な話でしょうか。
それでは、浜林正夫・野口宏『ドキュメント戦後世界史』(地歴社02年10月刊)に掲載された朝鮮戦争開始時の「秘話」を掲載しておきます。アメリカを模範とする日本版NSCが、憲法九条の交戦権の否認条項を空洞化するために考案されたものであることが、この記事を読むといっそう明らかになります。まさに、「やったもんが勝ち」の典型が、ここにあります。
北軍動員へ
金日成が勇躍臨戦態勢に入った頃、南では5月末、第2回総選挙が行われ、混乱を解決できない李承晩は韓国有権者の厳しい審判にさらされた。李承晩の与党が惨敗したのである。もはや金日成を押しとどめる条件はなくなった。金日成は侵攻をカムフラージュし、あるいは開戦が南からの侵略であるように国際世論を導くためだろうか、6月7日から韓国に対し、「8月15日を期して統一の国会を樹立」するための南北統一協商会議の開催をアピールした。その裏で6月10日、秘密大機動演習と称して全師団が南への移動を開始した。一部では陽動作戦として、わざと韓国軍に「訓練」を察知されるよう行動し、敢えて暗号も使わず、韓国軍に傍受させた。この間1、000回を上回る38度線上の衝突を重ねていた韓国軍は、したがってこの「訓練」をさして気にも留めなかった。一方、前線への本隊の移動は、味方の民間人にも知られぬよう、夜間に行われ、トラックは減光し、煙草の火も統制され、私語も禁止された。
こうして6月22日から23日頃までには、侵攻軍5個師団およそ10万の兵士たちが38度線全線の北側500メートルの至近距離に、あるいは離れた所でも7キロメートル地点に展開した。 23日までには全ての砲弾に信管が装着され、装備の最終点検が全軍将兵に令達された。
開戦にまつわる疑惑
それにしても戦車・自走砲・トラックなどの出すエンジン音、キャタピラの音、激しい振動は隠しても隠しきれるものではなかろう。
アメリカは1946年6月、ソウルに「韓国連絡事務所(KLO)」なる機関を作り、それ以後、スパイのもたらす情報にもとづいて、開戦までの期間毎日のように報告書を米極東軍司令部などに上中しているのである。 1947年からはおそらくCIAも動き出していたに違いない。この結果、多少の誤差はあったものの、米軍と韓国軍は開戦前の朝鮮人民軍の兵力、戦車台数、大砲から戦闘機の数などをほぼ完全に掌握しており、中国からの朝鮮人部隊の移動も掴んでいた。50年3月には朝鮮人民軍将官クラスの出席する極めて閉鎖性の高い戦術会議の様子も筒抜けになっており、ここで金日成が「今年は分断された祖国を統一する英雄的闘争を開始するだろう」と述べたことまでKLOは察知していたのである。一説には、「6月17日から7月17日の間に侵攻」とまで朝鮮人民軍の動きを読み切っていたというのだ。
一方、ダレス特使が開戦直前韓国を訪問し、38度線を視察した後、韓国議会で演説し、「あなた方は孤立していない」と、韓国への支持を強く表明している。敵の奇襲を待って一気に反撃に出るのはメイン号事件に始まる米西戦争、日本の真珠湾攻撃など、当時のアメリカの常套手段である。だから…とまで勘ぐるのは措くとしても、少なくともアメリカは北朝鮮の侵攻を事前に察知していなかったはずはないのだが、この大規模な移動が最後まで韓国の情報網に捉えられなかったのは何故だろうか。しかも、開戦直前、韓国軍中枢はまともには信じがたいヘマを犯すのだ。
6月24日、午後7時からソウルでは韓国陸軍本部将校クラブ会館の落成記念パーティが開かれた。参謀総長をはじめとする軍中枢の将校がそろって参列し、杯を重ね、ダンスに興じていた。最前線の38度線を見張るべきかなりの数の指揮官まで休暇を取ってこのパーティに加わっていた。韓国の最前線はこの決定的な時に「本日休業」だったのである。パーティが終わっても多くの将校たちは翌日が日曜日ということもあって、明洞の歓楽街へ二次会に繰り出し、深夜まで飲みまくり、泥酔して家にたどり着くとそのまま前後不覚に眠りこけてしまったのである。
それでも前線ではルーチンの敵情偵察は行われていた。しかし、38度線を越えて潜入した偵察隊は、夕方以未間歇的に繰り返される驟雨のおかげで異常音を聞き取ることが出来ず、山のような北の大軍に遭遇して仰天したときはもはや手遅れだった。
総攻撃開始とアメリカの素早い反応
6月25日日曜日未明、38度線全線に展開していた朝鮮人民軍の全部隊に暗号名「嵐!」の命令が下った。総攻撃開始の合図である。午前5時25分、大砲が南に向かって一斉に火を噴いた。T-34戦車がキャタピラの音をきしませて前進を開始した。兵士がその後に続き、一気に38度線を越え、続いて後に南北分断の象徴になった臨津江を渡った。奇襲の成功が確実になると、それまで指揮していたソ連軍事顧問団が北に引き返していった。
開戦と同時に、朝鮮民主主義人民共和国は(アメリカ帝国者たちの煽動によって南朝鮮傀儡軍が38度線全域に北侵した。・・・英雄的朝鮮人民軍は敵の攻撃に反撃を加え…」との声明文を発表した。
トルーマン大統領はアメリカ時間6月24日夜11時頃、ミズーリ州の自宅で国務長官のアチソンからその知らせを聞き、 国連緊急安保理会議召集の許可を与えてから再び眠りについた。翌朝アチソンから再度電話があった。どうやら今までの衝突とはわけが違うようである。トルーマンは慌ててワシントンに戻るべく機上の人となった。飛行機の中で彼は考えた。十数年前、オーストリアやチェコを侵略するナチスを、満州や中国を侵略する日本車をアメリカはただただ見守っていた。だから侵略はエスカレートし、あの忌まわしい第2次世界大戦を招いてしまったのだ。今度はそうはさせない。ただちに米軍を出動させ、なんとしても出鼻を挫くのだ。
トルーマンが夕刻ワシントンに着いた頃、ニューヨークでは緊急安保理会議が終わり、朝鮮民主主義人民共和国の行動を国連憲章第7章第39条にもとづいて「平和の破壊および侵略行為」であると断定し、即時停戦と北朝鮮の侵入地点からの撤退を勧告する6.25決議を賛成9、反対Oで採択したところだった。生ぬるい。トルーマンはただちに国家安全保障会議(NSC)を開き、その上で翌27日正午、アメリカ国民に対し、「海空軍に韓国軍の援護を命令した」と伝えた。
1947年、アメリカでは冷戦の進行に伴い、国家安全保障法を連邦議会で通過させ、これにもとづいて国防上の決定に関し、大統領を中心に審議する「国家安全保障会議(NSC)」が作られていた。 トルーマンはこの会議の議長として采配を振るい、議会にかけずに軍事行動の発動を命じたのであった。また、冷戦体制を決定づけた同会議指令(NSC68)はほんの2か月前に出されたばかりであった。
確かに、国連結成以後、武力行使は安保理の承認した国連軍か、または急迫不正の侵略を受けたときの自衛に限って認められてはいる。となればいかなる意味でも、他国に戦争を仕掛けることを宣言する「宣戦布告」は、これ以後全て犯罪行為である。それではアメリカ憲法に規定された連邦議会の有する宣戦布告権は消滅したのかというとそうではない。少なくとも「武力の行使の承認」という形でその権利は継続していると見て良いだろう。
だがNSCスタッフのアチソン国務長官はこの時、大統領に、この場合の武カ行使は侵略に対する反撃であるから議会の承認を受ける必要はないとアドバイスした。トルーマンの「機敏な」決断はこうして実行された。しかし、アメリカはこの時まだ韓国との間に米韓相互防衛条約も結んでいなかったのだから、果たしてこれを自衛のための武力行使といえるかどうか疑問である。しかも国連安保埋か「北朝鮮人民軍の撃退のために韓国を援助する」ことを決議したのはトルーマンの軍事行動命令の半日後である。
戦後世界史上有数の武力衝突において進められたトルーマンのこの決断は、戦後における歴代アメリカ大統領の武力行使のお手本となった。
それまでは小さな武力紛争は別として、米西戦争、第1次、第2次世界大戦など、大戦争に突入する際、当該大統領はすべて連邦議会の「宣戦布告」に等しい承認を受けた後、憲法上の最高司令官としてその任に当たったのである。しかるに国家安全保障会議(NSC)の成立以後、アメリカの戦争の仕方は本質的に変わったのである。
6月27日早朝、国連安保理は韓国援助を決定したが、ソウルは翌日陥落した。トルーマンはマッカーサーに、日本に駐留する米軍1個大隊を釜山に派遣するよう命じ、同大隊は7月1日、釜山に上陸した。(引用ここまで)