核兵器を保有し使用する口実は
広島・長崎以来一貫して同じだ!
アメリカをはじめとする
敵対勢力の脅威と制裁への対応措置の一環だ。
アメリカによる
核戦争の脅威からわれわれの尊厳と生存権を守るため
核武力を質量ともに強化していく
日米軍事同盟=抑止力の破たん浮き彫りなのに!
断固厳しい措置=制裁も破たん浮き彫りなのに!
北朝鮮政策の失政と破たんの責任は不問隠ぺい!
北朝鮮「核弾頭の爆発実験に初成功」 5回目の核実験 9月9日 16時00分http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160909/k10010678081000.html?utm_int=news-international_contents_list-items_056
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北朝鮮は9日、北東部で初めての核弾頭の爆発実験に成功したと発表し、5回目の核実験を行ったことを明らかにしました。北朝鮮としては、弾道ミサイルに搭載できる核弾頭の開発が進んでいると誇示する狙いがあるものと見られます。
北朝鮮は、ことし3月、「核弾頭の爆発実験」に初めて言及しました。
キム・ジョンウン(金正恩)朝鮮労働党委員長は、ことし3月、弾道ミサイルが大気圏に再突入した場合を想定した模擬実験に立ち会った際、「近い時期に核弾頭の爆発実験と、さまざまな種類の弾道ミサイルの発射実験を行う」と述べ、関係部門に準備するよう指示していました。
また、今月に入って北朝鮮の国営メディアは「初の水爆の雷鳴で幕を開けたことし、多段階で起きる核武力強化の成果を拡大し続けなければならない」とするキム委員長の発言を繰り返し伝えていました。
このため関係国は、ことし1月に続いて5回目の核実験を強行する可能性があると見て、警戒と監視を続けていました。
核兵器研究所とは
今回の核弾頭爆発実験について北朝鮮は、「核兵器研究所」の声明という形で発表しました。
キム・ジョンウン(金正恩)朝鮮労働党委員長は、ことし3月、核兵器に関する視察を行った際にこの研究所の科学者の出迎えを受けていて、「核兵器研究所」が国営メディアに登場したのは、この時が初めてだと見られています。
当時の視察でキム委員長は、さまざまな弾道ミサイルに核兵器を搭載するための研究の進捗(しんちょく)状況や、小型化された核弾頭の構造などについて、説明を受けたということです。
そのうえでキム委員長は、科学者たちに対し、より精密化、小型化された核兵器とその運搬手段をさらに多く製造すべきだと強調したとされています。
「核兵器研究所」は、その名称が北朝鮮のメディアで伝えられたのは今回が2度目で、北朝鮮の核開発において重要な役割を果たしているものと見られます。
北朝鮮との国境に近い住民「とても不安」
北朝鮮のプンゲリからおよそ200キロ離れた北朝鮮との国境に近い中国北東部の吉林省延吉では、住民も揺れを感じ、北朝鮮による核実験について不安だと話す人もいました。
このうち、地元に住む男性は、「私たち国境の近くに住んでいる人にとって、朝鮮がこんなことをやるととても不安です」と話していました。
また、60歳代の女性は、「家から出ようとしたときに揺れを感じました。めまいだと思ったのですが、テレビを見てわかりました。核実験をやってもどの国も得にはならないので、話し合いで解決してほしい」と話していました。(引用ここまで)
原爆投下の目的と正当化する思想と論理は
古今東西同じ!
決断なき原爆投下
~米大統領 71年目の真実~
|NHKスペシャル
http://tvmatome.net/archives/4771
当時の大統領ハリー・トルーマンはアメリカの全国民に向けラジオ演説で「戦争を早く終わらせ多くの米兵の命を救うため原爆投下を決断した。皆さんも同意してくれると思う」と語りました。多くの命を救うために決断したと正当性を主張したトルーマンの決断は、今に至るまでアメリカ社会で原爆投下の大義とされてきました。ところが、トルーマンは原爆投下直後に深い後悔の念を抱いていたことが分かってきました。さらにトルーマンが原爆投下に対して明確な決断をしていなかったという新たな事実も明らかになったのです。
アメリカでは毎年、各地で退役軍人をたたえるパレードが行われています。オバマ大統領が広島を訪問した今年は原爆投下が改めて大きな話題となりました。
「多くの日本人が亡くなりましたが、何千人ものアメリカ兵が救われました。トルーマン大統領は正しい決断をしたのです」(退役軍人)
「今生きているのは原爆のおかげです。原爆が戦争を終わらせたおかげで日本の子どもたちも死なずにすんだはずです」(退役軍人)
「トルーマンは多くの命を救うために原爆投下を決断した」
アメリカではこの大義が今でも市民に根強く受け入れられています。ところが、戦後71年のあいだ信じられてきたこの定説を根本から揺るがす事実が明らかになりました。
軍の施設に重要な資料が眠っていたのです。空軍士官学校の図書館の書庫に原爆計画の全てを知る人物のインタビューテープが未公開のまま保管されていました。原爆計画の責任者をつとめていたレスリー・グローブス准将へのインタビューです。
「大統領は市民の上に原爆を落とすという軍の作戦を止められなかった。いったん始めた計画を止められるわけがない」(グローブス准将)
当時のルーズベルト大統領が極秘に始めた原爆開発が「マンハッタン計画」です。1942年9月、グローブスはその責任者に抜擢されました。全米屈指の科学者を結集し、研究施設や工場を建設。22億ドルもの国家予算をつぎ込み世界初の原爆の完成を目指しました。ところが1945年4月、原爆の完成を待たずにルーズベルト大統領が急死。その直後に大統領に就任したのが当時、副大統領だったハリー・トルーマンでした。ルーズベルトから引き継ぎもないまま突然巨大国家プロジェクトの最高責任者となったのです。グローブスが就任当初のトルーマンについて語っていました。
「トルーマンは原爆計画について何も知らず大統領になった。そんな人が原爆投下を判断するという恐ろしい立場に立たされた」(グローブス准将)
実は政権と軍の間で知られざる攻防がありました。攻防の始まりはトルーマンが大統領に就任した13日後、大統領執務室でのことでした。この日、グローブスはトルーマンに原爆計画の進捗状況について初めて説明し、計画の続行を認めてもらおうと訪れていました。これまで原爆をどこに落とすかなど、詳細は報告されていませんでした。アメリカでは選挙で国民に選ばれた大統領が最高司令官として軍を統制する文民統制という仕組みがあります。重要な軍の決定事項は大統領に報告し、必ず承認を得ることになっていました。このとき、グローブスは24ページの報告書を持参。報告書には原爆の仕組みや核燃料の種類、予算などが完結に書かれていました。
原爆開発が成功すれば戦争に勝利するための決定的な兵器になると強調していました。しかし、大統領の反応は意外なものでした。
「大統領は報告書を読むのは嫌いだと言った。原爆開発の規模を考えると特に長いとは思えなかったが、彼にとっては長かったようだ」(グローブス准将)
トルーマンはこの報告書の詳細を知ろうとはしなかったのです。この時、グローブスは計画の続行が承認されたと考えたと言います。実はすでにグローブスは軍の内部で原爆投下計画を極秘に作成していました。
「最初の原爆は7月に準備。もう一つは8月1日ごろに準備。1945年の暮れまでに、さらに17発つくる」(資料より)
グローブスは原爆の大量投下まで計画していたのです。トルーマンは軍の狙いに気づくことなく、計画を黙認する形となったのです。
「私の肩にアメリカのトップとしての重圧がのし掛かってきた。そもそも私は戦争がどう進んでいるのか聞かされていないし外交にまだ自信がない。軍が私をどう見ているのか心配だ」(トルーマンの大統領就任当日の日記より)
この頃、ヨーロッパではナチスドイツが降伏寸前で、太平洋戦争でも日本を追い詰め戦争をどう終わらせていくのか舵取りが求められていました。
さらに戦後の国際秩序を決めるソ連などとの熾烈な駆け引きがトルーマンの肩にのしかかっていたのです。
大統領から原爆計画の承認を得たと考えたグローブスは、最初の面会から2日後、計画を次の段階に進めました。原爆を日本のどこに投下するのかを話し合う目標検討委員会の議事録を見ていくと、軍が何を狙って原爆を落とそうとしていたのかが分かってきました。グローブスが集めたのは軍人や科学者たち。この場にトルーマン大統領や側近は参加していませんでした。はじめに議論されたのは原爆をいつ投下すべきかです。
「日本の6月は梅雨にあたり最悪だ。7月はまだましだが8月になって良くなる。9月になるとまた悪くなる」(気象の専門家ランズバーグ博士)
8月の投下が決まると目標地点について物理学者が見解を述べていました。
「人口が集中する地域で、直径が5キロ以上の広さがある都市にすべきだ。それも8月まで空襲を受けず破壊されていない都市が良い」(物理学者スターンズ博士)
狙いは最大の破壊効果を得ることでした。選ばれたのは東京湾から佐世保までの17か所。その中で広島と京都が有力候補にあがっていきました。
「広島には広い平地があり、まわりが山に囲まれているため爆風の収束作用が強まり大きな効果があげられる」(物理学者スターンズ博士)
「京都は住民の知的レベルが高い。この兵器の意義を正しく認識するだろう」
2つの都市のうちグローブスが推したのは京都でした。
「京都は外せなかった。最初の原爆は破壊効果が隅々まで行き渡る都市に落としたかった」(グローブス准将のインタビューより)
1945年5月30日、グローブスはトルーマンの側近の部屋に呼ばれました。陸軍長官のヘンリー・スティムソンです。
「スティムソンの部屋を訪ねると、投下目標の候補は決まったかと聞いてきた。ちょうど決まったところですと答えた。どこが候補になったかと聞かれ都市の名前を伝えた。すると京都は認めないと言われた」(グローブス准将のインタビューより)
なぜスティムソンは京都への原爆投下に反対したのでしょうか?
「この戦争を遂行するにあたって気がかりなことがある。アメリカがヒトラーをしのぐ残虐行為をしたという汚名を着せられはしないかということだ」(スティムソンの日記より)
スティムソンはかつて京都を2度訪ねたことがあると言います。原爆を投下すれば、おびただしい数の市民が犠牲になると知っていました。
スティムソンはこの頃激しさを増していた日本への空襲が国際社会が非難する無差別爆撃にあたるのではと危惧していました。
これ以上、アメリカのイメージを悪化させたくなかったのです。一方、グローブスは諦めていませんでした。スティムソンとの面会から1か月後、京都に軍事施設があるという報告書を作成したのです。京都駅や絹織物の糸を作る紡績工場を軍事施設として報告していました。
「京都は他の軍事目標と何ら変わりません、とスティムソンに伝えたところ、京都への原爆投下は軍事的な意義がないと認めてくれなかった。認めてもらうため彼のもとに6回以上通った」(グローブス准将のインタビューより)
京都への投下は国益を損なうと考えていたスティムソン。グローブスの提案を認めようとはしませんでした。
1945年7月16日、ニューメキシコ州で世界初の原爆実験が成功。原爆の実践での投下が現実のものとなったのです。
一方で、日本ではすでに多くの都市が空襲で焼け野原となり降伏は間近とみられていました。グローブスは戦争が終わる前に原爆を使わなければならないと考えました。
「原爆が完成しているのに使わなければ議会で厳しい追及を受けることになる」(グローブス准将のインタビューより)
22億ドルの国家予算をつぎ込んだ原爆計画。責任者として効果を証明しなければならなかったのです。
原爆実験から5日後、スティムソンに部下から緊急の電報が届きました。
「軍人たちはあなたのお気に入りの都市、京都を1発目の投下目標とする意向のようです」(スティムソンの補佐官からの電報)
軍は京都への原爆投下をまだあきらめていませんでした。3日後、スティムソンはトルーマンに報告。京都を外すよう求めました。
「私は原爆の投下は、あくまでも軍事施設に限るということでスティムソンと話した。決して女性や子供をターゲットにすることがないようにと言った」(トルーマンの日記 7月25日)
トルーマンは市民の上への原爆投下に反対していたのです。ところが、このあと大統領の意思とは全く異なる方へと事態は進んでいきました。
トルーマンのもとに軍から届いた新たな投下目標を記した報告書の最初にあげられていたのは広島でした。34万人が暮らしていた広島。市内には日本軍の司令部が置かれていました。一方で、西洋の文化を一早く取り入れた活気ある市民の暮らしがありました。ところが、報告書には「広島は軍事都市だ」と強調されていました。
「報告書は広島が軍事都市だと伝わるよう巧みに書かれていました。目標選定を行っていたグローブスたちが意図的にだまそうとしていたのです」(カリフォルニア大学ショーン・マローイ准教授)
「軍は原爆によって一般市民を攻撃することはないと見せかけたのです。トルーマンは広島に原爆を投下しても一般市民の犠牲はほとんどないと思い込んでしまいました」(スティーブンス工科大学アレックス・ウェラースタイン准教授)
結局、トルーマンが投下目標から広島を外すことはありませんでした。
1945年7月25日、グローブスが起草した原爆投下指令書が発令されました。
「最初の原爆を広島、小倉、新潟、長崎のうちのひとつに投下せよ。2発目以降は準備ができ次第投下せよ」
この原爆投下指令書をトルーマンが承認した事実を示す記録は見つかっていません。原爆は大統領の明確な決断がないまま投下されることになったのです。
人類初の大量殺戮兵器の使用は、軍の主導で進められていきました。
原爆投下の前線基地となったのが太平洋に浮かぶテニアン島です。グローブスは日本への空襲の拠点となっていたテニアン島に、原爆投下の特殊部隊を集結させました。509混成群団です。全米各地から選抜された搭乗員で構成された爆撃部隊です。広島への投下作戦に参加した一人、レイ・ギャラガーの証言から作戦の狙いが見えてきました。
「司令官から目標はヒロシマと言われた。町を徹底的に破壊しろと命じられた」(レイ・ギャラガー)
目標とされたのは相生橋。相生橋を目標にしたのは破壊効果を最大にするためでした。
「目標に正確に投下せよと命じられ緊張した。その後、食べ物の味もわからなくなった」(レイ・ギャラガー)
1945年8月6日、午前1時45分、部隊はテニアン島を離陸。そして8時15分、広島に原爆が投下されました。
「二度と見たくない光景だった。申し訳ないが地上の人々に心を向けることはなかった。私たちは運べと命じられたものを運んだだけだ。作戦は完全に成功した」(レイ・ギャラガー)
このときトルーマンは大西洋の船の上にいました。戦後処理を話し合う、ポツダム会談の帰り道でした。原爆投下の一報を受けたトルーマンは船の中で演説を収録しました。あくまでも軍事目標に落としたと強調していました。
「先ほどアメリカ軍は日本の軍事拠点ヒロシマに1発の爆弾を投下した。原子爆弾がこの戦争を引き起こした敵の上に解き放たれたのだ」
このとき、軍の思惑には気づいていなかったとみられています。一方、ワシントンで報告を受けたグローブスは、原爆を開発した科学者に電話し「君たちを誇りに思う」とねぎらいました。
政権と軍の思惑がかけ離れたまま投下された原爆。トルーマンが認識の誤りに気付いたのはワシントンに戻った直後でした。その時のことをがスティムソンの日記に克明に記されています。
「8月8日の午前10時45分、私は大統領を訪ねた。そして広島の被害をとらえた写真を見せた」(スティムソンの日記 8月8日)
その時見せたとされる写真は空から撮影した原爆投下直後の広島です。直径5キロの市街地がことごとく破壊されていました。これを見せながら、広島の被害について説明したスティムソン。その時トルーマンが発した言葉も記されていました。
「こんな破壊行為をした責任は大統領の私にある」
軍の狙いを見抜けなかった大統領。明確な決断を行わなかった自らの責任に気づいたのです。しかし、動き始めた軍の作戦は止まることなく暴走しました。同じ日、テニアン島ではすでに2発目の原爆の準備が整っていました。止められるのは最高司令官の大統領だけです。しかし、原爆は長崎にも投下されました。広島の写真を見た半日後のことでした。トルーマンはこのときの心境を友人への手紙に記していました。
「日本の女性や子供たちへの慈悲の思いは私にもある。人々を皆殺しにしてしまったことを後悔している」(トルーマンの手紙 8月9日)
8月10日、トルーマンは全閣僚を集め、これ以上の原爆投下を中止する決断を伝えました。トルーマンは、この場で「新たに10万人、特に子どもたちを殺すのは考えただけでも恐ろしい」と発言しました。
3発目の準備をしていたグローブスですが、大統領の決断には従うしかありませんでした。
「3発目の準備を中止させた。大統領の新たな命令がない限り投下はできなくなった」(グローブス准将のインタビューより)
日本への原爆投下がようやく止まったのです。トルーマン大統領が初めて下した決断は、21万人以上の命を奪った末の遅すぎる決断でした。
大統領の明確な決断がないまま行われた原爆投下ですが、このあとトルーマンはその事実を覆い隠そうとしていきました。長崎への原爆投下の24時間後、国民に向けたラジオ演説で用意されていた原稿にはなかった文言が加えられていました。
「戦争を早く終わらせ多くの米兵の命を救うため原爆投下を決断した」
研究者はこの言葉が、市民の上に投下した責任を追及されないよう後付けで考えられたものだと指摘します。
「トルーマンは軍の最高司令官として投下の責任を感じていました。例え非道な行為でも投下する理由があったというのは大統領にとって都合の良い理屈でした。このとき、命を救うために原爆を使ったという物語が生まれました。世論を操作するため演出されたのです」(スティーブンス工科大学アレックス・ウェラースタイン准教授)
8月15日、日本が降伏すると世論調査で8割のアメリカ国民が原爆投下を支持しました。原爆投下は正しい決断だったという定説が生まれたのです。その後、原爆による被害の実態が伝わらないまま世界は核開発競争が続いていきました。
原爆投下から18年後、トルーマンは一度だけ被爆者と面会したことがあります。このとき、トルーマンは被爆者に対し「原爆を投下したのは日本人のためでもあった」と説明していました。最後まで目を合わさず、面会は3分程で打ち切られました。
71年前、兵器の効果を示すため市民の頭上に落とされた原子爆弾。計画の実現だけを考えた軍の危うさを指導者は見逃しました。事実は書き換えられ、原爆は正当化されていきました。(引用ここまで)