mm
野党共闘は「野合」か?
デマネガティブキャンペーンをはる安倍政権を応援する読売だが
関ケ原のたたかいの評価では、興味ある記事だな!
そして
安倍首相は秀吉型か、家康方か?
デマとネガティブキャンペーンで野党共闘に難癖をつける読売社説のみっともないホンネに安倍派の姑息浮き彫り! 2016-07-04 | 16年参院選
「真田丸」の秀吉死去…豊臣子飼い大名はなぜ家康に従った
人事戦略コンサルタント 高城幸司 2016年08月20日 10時00分
http://www.yomiuri.co.jp/entame/ichiran/20160816-OYT8T50090.html?from=ytop_os1&seq=04
NHK大河ドラマ「真田丸」は、豊臣秀吉の無邪気な「明」と怒りの渦巻く「暗」の両面、そして死に向かって壊れていく様までを丁寧に表現した俳優・小日向文世さんの好演が話題を呼んだ。その秀吉が亡くなり、次の天下を狙って徳川家康が動き出す。結果は周知の通りだが、なぜ豊臣恩顧の大名らの多くが家康に従ったのか。「 ツンデレ?NHK『真田丸』三成の処世術」で石田三成らを通して中間管理職論を執筆した高城さんが、今度は真田丸のリーダー論を語る。
「真田丸」は、天下統一を実現した太閤・豊臣秀吉が亡くなり、次のリーダーを誰が担うのかを巡って再び世の中が混乱し始めます。そのキーとなるのが、徳川家康と石田三成。双方とも頻繁に宴を開いては、仲間の大名を増やそうとします。
ただ、2人の思惑は大きく異なります。「ツンデレ?NHK『真田丸』三成の処世術」でも触れたように、三成は豊臣カンパニーの承継のため。家康は自らがカンパニーのトップになるため。その後の結果は史実の通りですが、どうして2人は関ヶ原で対決し、豊臣カンパニーから徳川カンパニーへと替わることになったのでしょうか?
瓦解した五大老・五奉行体制
秀吉亡き後の天下を狙う徳川家康(右、内野聖陽)と重臣の本多正信(近藤正臣)(NHK提供)
本来であれば、オーナー秀吉の直系の子息である秀頼が継げばいい話ですが、秀吉死去の時点でまだ5歳。すでに禁裏(御所)で元服して、多数の大名たちが秀頼に忠誠を誓約する起請文に血判署名していたものの、あまりに幼少でした。
太平の世の中になった江戸時代ならば、わずか4歳で第7代将軍となった徳川家継のような例があります。ただ、国内外に数多くの課題を抱え(秀吉は朝鮮出兵「慶長の役」の最中で死去)、組織・体制も盤石でない状態で幼児が代表を担うのは時期尚早です。このため、秀頼が承継するまでの「つなぎ体制」をつくる必要がありました。
こうしたつなぎ体制は、現代のオーナー系企業でもよく行われることです。私が取材した関西の製造業の会社は、創業オーナーが高齢で退任を余儀なくされたタイミングで、御子息がまだ中学生。少なくとも10年以上はつなぎ体制を取る必要に迫られていました。打開策として、管理系、営業系、製造系の主要役員によるボード会議を設置し、これまでオーナーが行ってきたことを代行する体制を整備しました。現在までこの体制は機能しているようです。
では、豊臣カンパニーはどうしたのでしょうか?
秀吉オーナーを支えてきた徳川家康、前田利家、毛利輝元、宇喜多秀家、上杉景勝。この5人=五大老(「真田丸」では老(おとな)衆)と、実務面を取り仕切る5人の経営企画メンバー、いわゆる五奉行の10人で会社経営を分業で担うことにしたのです。これは、秀吉が存命中に整えたつなぎ体制でした。ところが、このつなぎ体制は十分に機能せず、空中分解しました。五大老のキーパーソンとなる前田利家が死去し、その嫡男で後継者の前田利長が徳川氏と対立したのです。これをきっかけに内部闘争が起こり、組織は秀頼へのつなぎどころではなくなりました。
そんな空中分解した組織は分業ではなく、ワントップのリーダーを求めるようになります。
秀吉のリーダー像は「パワー型」だった >>
“小日向秀吉”が切り開いた新境地
真田丸で秀吉の正室、寧役を演じた鈴木京香さんは、「秀吉死去」後のあるインタビューで「今、秀吉ロスです」とコメントしていました。同じように、視聴者からも「あかん、泣ける」「秀吉の老いの描き方は秀逸だった」と、絶賛と同時に秀吉の退場を「残念で仕方ない」と惜しむコメントがネットに上がっています。それだけ衝撃的な秀吉の生と死を、今回の秀吉役・小日向文世さんが演じたということでしょう。
笑顔のシーンでも、目は笑っていません。笑顔を浮かべた次の瞬間には、表情が消えうせています。そんな感情の落差を表現した怖い演技でした。
死に至る描写にも無常観が漂っていました。秀吉を見舞いに来た小早川秀秋(寧の甥)は秀吉がこだわった「蝋燭(ろうそく)の火」を消してしまい、秀吉はその夜から昏睡(こんすい)状態に陥ります。
ふと目が覚めた秀吉は、異変を感じ(側近に連絡するための)「鐘」を探しました。そして、寝床から落ちます。その場面で、有働由美子アナの「栄華を極めた男の人生の締めくくりとしては、それはいかにも寂しいものであった。太閤・豊臣秀吉。享年62」とのナレーションが流れ、秀吉は這(は)いつくばって近寄った鐘のところで息を引き取りました。
ネット上には、秀吉を演じた小日向さんをたたえるコメントがあふれています。
秀吉のリーダー像は「パワー型」だった
とは言っても、一般的に、晩年の秀吉は組織のリーダーとしては最悪と評価する意見が多数を占めます。老いによって酷薄さを増して、独断による恐怖政治を推し進めました。
例えば、織田信長の息子である織田信雄(のぶかつ)が国替えを拒否すると大激怒。百二十万石を誇った大大名を一文なしの浪人にしてしまいました。
さらに後継者と目していた秀次(秀吉の甥)を切腹させます。豊臣カンパニーは朝鮮出兵も強行、「恐ろしい」「ついていけない」経営判断を乱発され、幹部たちが辟易(へきえき)するようになっていきました。
秀吉の若き頃には信長の草履を懐で温めるといった気配り、人たらしと呼ばれる人心掌握力のある逸話がいくつも残っています。あるいは備中高松城の戦いの最中に本能寺の変を知るやいなや、速やかに毛利氏との講和を取りまとめ、10日で京に向けて全軍を引き返すなど優れた判断ができるリーダーでした。ゆえに秀頼が生まれる前後で分けて評価すべきとの意見が大半です。「真田丸」でも、その頃から、側近である石田三成や真田信繁らが「変わってしまった」と嘆くシーンが頻繁に登場しました。
しかし、リーダーとしての「スタンス」は一貫していたのではないでしょうか?
秀吉のめざすリーダー像は、権限を一極集中させるパワー型。強権を発動して指示に従わせ、危機的な状況を乗り越えなくてはいけない場面では力を発揮するスタイルです。部下から意見を聞いて反映させる組織はないに等しい状態で、命令を繰り返すだけ。戦国の時代に、天下統一を図るためには適していたのかもしれません。
その反面、命令に即座に従うことを要求する一方で理由を説明しないため、不協和音を招きやすいマイナス面があります。さらに、暴走すれば誰も止められない。そんなリスクも抱えています。そのマイナスやリスクを実感して、「これからの時代に求められるリーダー像はパワー型ではない」と別のリーダーを求めた部下たちが多数出てきました。それが黒田長政や細川忠興、真田信繁の兄・信幸だったのではないでしょうか?
「パートナー型」の家康を選んだ部下たち
幹部社員たちは、秀吉がここまで自分を引き上げてくれたことに感謝しつつも、一つの判断を迫られていたはずです。それは、次世代のリーダーにパワー型を継続させるのか否かという判断です。
秀吉は息子の秀頼を次のボスにする前提で、五大老・五奉行による共同経営でつなぐ体制を準備しました。見た目にはパワー型からの転換にもみえますが、あくまでつなぎ期間のこと。秀頼が成人すれば、再びパワー型で恐怖政治に逆戻りする可能性があります。
ちなみに五大老・五奉行を継続させるときに求められるリーダー像は「パートナー型」と呼ばれます。一人一人の意見を聞きながら進め、組織のメンバー全員が意欲的に仕事に取り組む(コミットメント)状態を大事にするマネジメントスタイルのこと。このスタイルを標榜(ひょうぼう)したのが徳川家康でした。
家康の名言に「およそ人の上に立って下の諫(いさ)めを聞かざる者の、国を失い、家を破らざるは、古今とも、これなし」があります。愚かなことを言う者があっても、最後まで聞いてやらねばならない。でなければ、聞くに値することを言う者までもが、発言しなくなるといった意味です。
真剣に耳を傾けてくれる人を人は信頼する
上司と部下のやりとりでは、ついつい相手の言葉をさえぎり言葉を返してしまうことがあります。最後まで話を聞いてもらえなかった人は、「まだ言いたいことが残っていたのに」と心の中に不満を抱え込みます。
こうなると、相手の本音を聞き出すことが難しくなってしまいます。人の話をなかなか聞けない原因は、「早く要点が知りたい」「人に自分の話を聞いてもらいたい」という欲求が抑えられないからです。聞き手に回るときは、相手が発言できる環境をつくるために、相手を尊重して自分の欲求を抑えなければなりません。
自分の考えが論理的に正しいとしても、「相手は何が言いたいのか」を探り、相手のことを理解しようという認識を持つことが大切です。本気で相手の話を理解しようと集中することで、相手との信頼関係に良い影響を与えることもできます。
すべての話を聞き終えてから質問しても遅くはないのです。話を聞かず内容を理解しない、そして話題を変えようとする人に、人は真剣に話すことはしません。真剣に話を聞いてくれる人には、最後まで話したいと思い、その人への信頼も高まります。聞くに値する意見が多く集まることは、自分の身を守ることにもつながります。
部下の諫言を聞き入れた家康
家康は、部下から「思っていたことをお諌(いさ)めしたいと思い、書き連ねました」という諫言(かんげん)を受けて、それを喜んで受け入れた……などといった逸話がたくさん残っています。リーダーに対して媚(こ)びへつらう者ばかりでは過ちを正せない、諫言こそ忠誠心の証しと考えていたようです。こうした新時代に求められるマネジメントスタイルを、家康は周囲に見せつけていきました。
これに呼応し、パワー型で育ってきた秀吉の子飼いたちまで家康になびいていきます。決定的だったのが、小山評定。関ヶ原合戦の直前、下野(しもつけ)国小山(現在の栃木県小山市)で開かれた歴史的会議です。
家康の留守中、西で挙兵した石田三成に対し、本来は家康を豊臣家の名代として、上杉景勝を討伐する予定だった諸大名連合軍が、この地での軍議で軍を西に返し、石田らの軍と対決することを決定しました。このとき、「豊臣家の命令による連合軍」が「家康を頭目にした私軍」となりました。すると家康は「妻子を人質に取られている方もおろう」と状況を推し量り、参集した武将を前に、「(上方で挙兵した三成に味方しても恨まない)遠慮なく申し出られよ」と言いました。
これに対し、「内府殿(家康の官職)にお味方致す」と真っ先に声をあげたのは福島正則でした。豊臣秀吉の縁者で幼少より小姓として仕え、育てられたともいえる秀吉子飼いの武将で、豊臣家への忠誠心は厚いことで知られています。その正則が真っ先に家康支持を表明したことで、諸将も一斉に続きました。
時代は再び「パワー型」リーダーを求める?
その後に徳川家が長く続くカンパニーをつくったことは、歴史が示している通りです。家康は、同様のマネジメントが継続される組織を構築しました。部下が諫言できるだけでなく、家老が組織のマネジメントの中心となる合議制の会社経営です。さらに下級の家臣が家老に了承を求める稟議(りんぎ)型へと進展していきます。この稟議型は現在の日本企業の意思決定に続いていきます。秀吉から家康、そして現在に至る……そう考えると、家康はリーダーとして日本の礎を築いたくらいの偉大な人物であるとも言えるのではないでしょうか?
しかし、一方で、安定成長期を終えた現代日本では、稟議型よりトップダウン型が重視されてきているようにも思います。つまり、「パワー型」の秀吉が再び見直される時期に来ている可能性もあるのです。
さて、真田丸での家康には、日本企業の原型を築いた人物としての片鱗(へんりん)を垣間見ることができるのでしょうか? 、大いに注目していきましょう。
プロフィル 高城幸司( たかぎ・こうじ )
1964年生まれ。リクルートで情報誌「アントレ」の創刊などに関わった後、退社。人事戦略コンサルティング会社「セレブレイン」を創業し、現在代表。事業に関連し、数多くの会社の社内政治の動向や、その中で働く管理職の本音を取材してきた。「上司につける薬!」「社内政治の教科書」など著書多数。
・ツンデレ? NHK「真田丸」三成の処世術
・イラッとするNHK大河「真田丸」で自分を磨く方法
・大河ドラマ「真田丸」の舞台(9)…「幻の城」伏見城
・リベンジなるか?NHK大河ドラマ「真田丸」の戦い
関ヶ原の決断を一生後悔し続けた福島正則 2016年2月17日
http://hipstergate.jp/entertainment/6918/
・・・慶長5年(1600年)5月、関ヶ原の戦いの導火線となる会津・上杉景勝討伐の軍が編成されます。徳川家康を総大将に、福島正則も従軍します。ところが、7月に石田三成が上方で挙兵したという報せが入り、家康は下野・小山で軍議を開きます。このまま家康の東軍に付いて、石田三成の西軍と戦うか。それとも、三成に味方して家康と戦うか。どの大名も、大きな決断を迫られました。この時の正則は、積極的に家康を支持しました。「この戦いは、豊臣対徳川の戦いでは無い。豊臣家を私しようとする石田三成を討つのが目的だ。」家康の言葉を信じ、三成憎しの感情が燃えたぎる正則は、軍議の場でいち早く家康に味方することを表明しただけでなく、東軍の先陣として岐阜城を陥落させ、関ヶ原の当日も、第一線に立って奮戦しました。その結果、安芸・広島49万8千石という大幅な加増を獲得したのです。このときの正則は、さぞ得意の絶頂感を味わっていたことでしょう。自分の決断に、間違いはなかったのだと・・・・(引用ここまで)
「選挙目当ての野合」…自民と公明、批判強める 2016年05月14日 19時27分
http://www.yomiuri.co.jp/election/sangiin/2016/news1/20160514-OYT1T50082.html