愛国者の邪論

日々の生活のなかで、アレ?と思うことを書いていきます。おじさんも居ても立っても居られんと小さき声を今あげんとす

神道本来の命の大切をスリカエ、ゴマカシ天皇のために死ぬことを強要して殺人装置と化した偽装・偽造・詐欺の新嘗祭=勤労感謝論を止めて労働基準法を徹底化させるべきだな!

2016-11-27 | 日本文化

そそそも「五穀豊穣」論を投げ捨てたのは戦後自民党政権だろう!

日本の農業を荒廃・沈滞・崩壊させたのは戦後自民党農政だろう!

「日本の「保守」政党を名乗る「自由民主」党は、その名前を返上すべき!

TPPで日本農業を売り渡す安倍政権は「保守」でも「自由民主」党でもないし

新嘗祭=勤労を感謝する資格そのものがゼロだろう!

ライフ勤労感謝の日とは、もとは新嘗祭の日。柳田国男の言葉から、稲の恵みについて思い起こしてみよう 2015年11月23日

http://www.tenki.jp/suppl/miyasaka/2015/11/23/8081.html

古代からの宮中儀式・新嘗祭から、勤労感謝の日へ

11月23日の勤労感謝の日は、1948年に制定された国民の祝日のひとつです。呼称はアメリカの感謝祭 Thanksgiving Dayにならったものといわれています。この日のもとは、新嘗祭という旧祝祭日でした。新嘗祭は、「にいなめさい」、または「にいなめまつり」、音読で「しんじょうさい」ともいいます)新嘗祭とは、新穀を神にささげて収穫を感謝し、きたるべき年の豊穣を祈る祭儀天皇が新穀を天神地祇に供え、みずからもそれを食する宮中儀式で、古代から続けられています。古くは陰暦11月第2の卯の日で、1873年以後は11月23日と定められ,戦後は多くの神社でも行われるようになりました。天神地祇とは「てんじんちぎ」と読み、天つ神と国つ神、高天原(たかまがはら)に生まれた神と、葦原の中つ国に天降った神の意味をもちます。稲の収穫をもたらす、天と地のあらゆる神々に感謝を捧げる祭儀の日が、新嘗のまつりなのですね
柳田国男の最後の著作『海上の道』。最終章が『稲の産屋』
そんな新嘗祭について触れつつ、その原点について語っている本があります。日本民俗学の創始者といわれる柳田国男(1875-1962)の『海上の道』の中の一編、『稲の産屋』です。柳田国男は貴族院書記官長を退官後、国内を旅して民俗・伝承を調査し、数多くの著作を残しました。岩手県遠野市に伝わる昔話、伝説を集めた『遠野物語』が有名ですね。柳田国男の生涯の関心事は、「日本人はどこから来たか」への考察でした。最晩年の『海上の道』は、日本人の源流が稲を携えて、中国大陸から琉球諸島を経て日本列島へと島伝いに海上の道を渡ってきた、という仮説を提示したものです。この仮説に対しては賛否諸説がありますが、柳田国男が流れ着いた椰子の実について島崎藤村に語ったことで誕生した、『椰子の実』の唱歌のエピソードは有名ですね。
稲作への遠い記憶、稲霊の誕生への祭りの原点
『稲の産屋』は、“「にひなめ」という日本語”“ニホの名の起こり”“産屋をニブ”“シラという語の分布”などのタイトルが付けられた各章から成ります。それぞれが稲作や農村に関連する行事や単語を意味しますが、現代人の私たちには、即時には連想できないモチーフも多くあります。「産屋」は、昔、出産および産後のある期間、産婦が生活をするために用いられた小屋を意味します。文章そのものは学説論文とは対極にあるような、遠い記憶をゆらゆらと辿るが如くの、詩や文学や、神話でさえもあるかの世界観です。ここで柳田国男は、ニヒナメのニヒは、新しいという意味ではなく、ニホあるいはニョウを起源として「稲を穂のままに、ある期間蔵置する場所」すなわち「稲の産屋」だったのではないか、と語っています。新嘗祭がもつ、稲霊の誕生と相続をことほぐ祭の原点を思い起こしているのでしょう。
穀母の身ごもる日~柳田国男の最後の言葉
収穫量が今とは比べ物にならなかった昔むかし、どれほど人々は稲の恵みに感謝したことでしょうか。『稲の産屋』は以下の文章で閉じられます。柳田国男が最後に私たちに伝えた言葉はとても優しくあたたかくて、人々の営みへの眼差しを感じます。“ともかくも霜月二十三夜の前後、月の半輪が暁の空に、傾く頃が冬至であり、またおそらくは西洋のクリスマスでもあった。ここを一年の巡環の一区切りとして次のうれしい機会のために備えようとする考えは、大地にいたずく人々にとっては、ことに忘れがたきものであったと思う。指を折って干支(かんし)を算える技術を学ばぬ以前から、すでに我々は穀母の身ごもる日を予知し、またそれを上もなく神聖なる季節なりと、感ずることを得たのであった。” 参考文献:柳田国男『海上の道』(岩波文庫)(引用ここまで
 
勤労感謝の日と新嘗祭(にいなめさい)
今日は勤労感謝の日。11月23日(2006年)です。祝日については 祝祭日一覧 もご覧下さい。
さて、「勤労感謝の日」の意味は現在の祝日法によれば、勤労をたつとび、生産を祝い、国民たがいに感謝しあうとなっています。
勤労をたっとび・・・て、何もこの日に限らずいつでもそうじゃないかという気がします。ならなぜこの日が勤労感謝の日になったのでしょうか?
その鍵は次の「生産を祝い」にありそうです。ではその当たりから探りを入れてみましょう。
 
勤労感謝の日は新嘗祭(にいなめさい)

勤労感謝の日は11月23日。この日は戦前もまた祭日で「新嘗祭」でした。勤労感謝の日にならって新嘗祭の意味を法律の文面から拾ってみると、天皇が新穀を天神地祇に勧めて神を祀り、身ずからも食すとあります。その年に収穫された穀物(新穀)を神に勧め神を祀る行事ですから、現在の勤労感謝の日の「生産を祝い」と結びつきます。

こう考えると、勤労感謝の日の「勤労をたっとび」はこの収穫をもたらした「一年の勤労を尊ぶ」という意味なのだと合点が行きます。ならばいつでも尊いはずの勤労に感謝する日を、この日と定めた意味もわかります。

勤労感謝の日の意味やその日付を考えるのは、そのまま新嘗祭の意味や日付の意味を考えること同じになりますから、ここから先は新嘗祭に沿って歴史を遡ることにします。
新嘗祭(にいなめさい)とは新嘗祭の語源は「新饗(にいあえ)」と考えられます。新穀を捧げて饗応するという意味です。では誰が誰を饗応するのでしょうか。それは戦前の新嘗祭の説明にあるとおり、「天皇が神々を饗応する」のです。

戦後はこの新嘗祭は皇室典範に記載された儀式から外れたそうですが、法的にはこの儀式を行う必要はなくなっても、皇室においては重要な宮中行事として継続されているそうです儀式は、23日の夕方から始まり翌日の未明まで行われます。

新嘗祭の歴史は古く日本書紀では「天武天皇六年(AD 677)十一月乙卯の日」に行った記録があります。日本書紀での記録と言うことでは仁徳天皇四十年にも新嘗祭の記述がありますが、まあここまで来ると史実と言うより神話になってしまいますので、年代は定かではありません。ただ、十分に古い儀式だと言うことは判ります。

この際、捧げられる米、粟は各都道府県毎に 2軒の農家が選ばれてこれを献納するそうです。この伝統は明治25年に全国の都道府県知事(この時点では北海道は入っていなかったが、後に加わる)の連名での要請ではじまったものだそうで戦後も農協が中心となって継続しているそうです

新嘗祭と神嘗祭(かんなめさい)

新嘗祭に先だって、これによく似た神嘗祭(かんなめさい)という行事があります。こちらも戦前は祭日でした。神嘗祭は皇祖である天照大神を祀る伊勢神宮に天皇が幣帛(へいはく)を捧げ、宮中からこれを遙拝する儀式です。神嘗祭は伊勢神宮で行われ、10月15~16日(外宮)、16~17日(内宮)でその年に収穫された穀物や酒などを天照大神に供えます。

新嘗祭はこの神嘗祭からおよそ一月遅れて行われます。内容は重複する部分が多いのですがよく見ると違いもあります。それは神嘗祭が「神に供える」だけなのに対して、新嘗祭は「神を祀り、自らも食す」という点です。

日本の神話によれば、天皇は天照大神の子孫ですから、天照大神から国に実りをもたらす豊穣の力を受け継ぐものでもあります。ですから、皇祖である天照大神に新穀を捧げるだけではなく、自らもこれを食すことによって新たなる力を得、次の年の豊穣を約束する行事であると考えられます。

細かなことですが、なぜよく似た行事である神嘗祭と新嘗祭があるのかを考えると、その意味の違いに気が付きます。面白いですね。

新嘗祭の日付

勤労感謝の日が新嘗祭の日だと言うことは既に書きましたが、では新嘗祭の日付はどうして決められたのでしょうか。新嘗祭の日付が11月23日に固定されたのは明治 6年。それ以前は11月の 2番目の「卯の日」が新嘗祭の日と定められていました。ここで注意が必要ですが、明治 6年は日本が現在の新暦を採用した年。つまりそれ以前に行われていた新嘗祭の日付は旧暦の月日によっていたと言うことです。
明治 6年に改暦が行われそれまで旧暦の第 2の卯の日(「中卯」と表した)と定められていた新嘗祭の日付を急遽新暦に適用することになりましたが、その際に旧暦・新暦の差を考慮せずそのまま「11月の中卯」を適用した結果、明治 6年はその日が11月23日だったのでこの日とされました。
そして明治 7年以後は明治 6年の「11月23日」の日付を変更せずに固定してしまい、現在に至っています。

十一月の中卯 の謎解き

古い行事の日付にはそれなりの意味があることが多いのですが、このように単純に新暦の日付に移されて固定化されると、元々の日付の意味がわかりにくくなってしまいます。現在の新嘗祭もその通りで、現在の日付からだと本来の日付に込められた意味が見えてきません。ここで、旧暦で「十一月の中卯」の意味を考えてみましょう。

十一月中卯となる日付はと言うと、11月13~24日と言うことになります(十二支なので12日ごとに日が巡るから)。十一月の中旬頃と言うことになります。
ここで旧暦の十一月と言えば思い出すことがひとつ。それは「冬至」です。

旧暦時代、冬至は必ず「十一月」にありました。冬至の日付は旧暦では大きく変化しますが平均すると11月15日頃となりますから、十一月中卯の日は冬至と同じか、やや遅いくらいになることが多いことが判ります。これが判ると、新嘗祭の日付の意味が見えてきます。

1.冬至は太陽の力が一番衰える日。そして再び力を取り戻し始める日

2.太陽は、天照大神

3.天皇は天照大神の子孫で、その力を受け継ぐ存在

新嘗祭の行事の意味としてすでに「天皇自らも新穀を食すことによって新たなる力を得、次の年の豊穣を約束する行事」と書きましたが、だとしたらこの行事が行うのにもっとも適する時期はと言えば、冬至の日の前後。まさに十一月中卯はそれに合致する日ということになります。

卯の日の謎

さて、前段で新嘗祭と冬至の関係から、十一月中卯が新嘗祭に適する日だと考えました。ですがこの考えにはひとつ疑問点が残ります。それはなぜ「卯の日」でなければならないのかです。単に冬至の前後となる日としたいのであれば、十一月中卯に限らず、十一月の 2番目の子~亥の何れの日でもよいことになります。なぜ「卯」の日なのでしょうか。しばらく考えましたが、こうしたときには陰陽五行説から月と日の関係をみると答えが見つかる場合が多いので、月と日の十二支とその五行配当を見てみました。すると、

 十一月・・・子月  子:水の兄(陽)
 日付は・・・卯日  卯:木の弟(陰)

「水」と「木」は五行では相生の関係、「水は木を生む」。また子は「陽」、卯は「陰」。陽は男性、陰は女性の性質とされるので子月卯日は月と日で男女和合での新しい誕生という意味もあります。
また四季の五行配当を考えると

 水:冬 , 木:春
 水は木を生む ⇒ 冬は春を生む ・・・ 季節の循環がはじまると「子月卯日」は様々な点で理想的な日なのです。(引用ここまで)

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トランプ氏と私的会談・APEC首脳会議・アルゼンチン訪問帰国後に新嘗祭神嘉殿の儀に参列した安倍首相は憲法第20条違反なのにどこも問題にしないのは怠慢!

2016-11-27 | 日本文化

天皇家の「私的」行為である宮中祭祀に安倍首相が参加するのは

靖国参拝の「私的」行為と同じか!

首相の宮中祭祀は参加は違憲だろう!戦前と全く同じ!

安倍首相の違憲行為を情報伝達手段のテレビ・新聞・政党は問題にしないのか!

「宮中祭祀」は天皇家の「私的」行為であり「国事」行為でも違憲の「公的」行為でもない!

天皇家の「私的」行為である「五穀豊穣」に感謝する新嘗祭を勤労感謝の日にする意味は!

新嘗祭を勤労感謝の日に変更した、させたのはアメリカの押し付けか!

「五穀豊穣」思想を「天皇のために死ぬ」ことを強制した皇国史観のデタラメ浮き彫り!

二重三重のゴマカシ・スリカエ・デタラメ・大トリックは止めろ!

11月23日(水午後】3時5分、米ニューヨークでのトランプ次期米大統領との会談、ペルーでのアジア太平洋経済協力会議(APEC)首脳会議出席、アルゼンチン訪問を終え、昭恵夫人と共に政府専用機で羽田空港。40分、東京・富ケ谷の私邸。6時46分、皇居。帰国の記帳。新嘗祭神嘉殿の儀に参列。8時46分、私邸。

 宮中祭祀とは|日本文化興隆財団 - 日本のこころ [Heart of Japan]

 

http://www.nihonbunka.or.jp/knowledge/saishi

 

宮中祭祀とは、宮中で天皇が親しく行われる祭祀をいい、その起源は、『日本書紀』に記されている「神勅(しんちょく)」に求めることができます。その第一は、天照大神(あまてらすおおみかみ)が天孫降臨(てんそんこうりん)に際して、「此の宝鏡を視まさむこと、常に吾を視るがごとくすべし。ともに床(みあらか)を同(おなじ)くし殿を共にして、齋鏡(いはひのかがみ)とすべし」とおっしゃったお言葉です。これは「この宝鏡を私(=天照大神)だと思って宮中に祀るように」という意味であり、これが鏡を奉斎する賢所(かしこどころ)の起源です〈後の崇神天皇の御代に天照大神の神霊は宮中を離れ、鏡を奉じた倭姫命(やまとひめのみこと)によって伊勢へご鎮座されることになります〉。 次いで、高皇産霊尊(たかみむすびのみこと)が、「天津神離(あまつひもろぎ)および天津磐境(あまついはさか)を起し樹てて、まさに吾孫(すめみま)の為に斎(いわ)ひ奉(まつ)らむ」とおっしゃいました。これは、「神の御座所としてお鎮まりになるところを立てて天孫のために祀ろう」とう意味で、神宮・神社の起源を示しています。 三番目は、天照大神が宝鏡を授けられたのに続いて、「高天原(たかまのはら)に所御(きこしめす)齋庭(ゆには)の穂(いなほ)を以(もち)て、亦(また)吾(あが)児(みこ)に御(まか)せまつるべし」とおっしゃられたお言葉です。これは、食物として地上で栽培するようにとの趣旨で、天照大神が天孫に種籾(たねもみ)を授けられたもので、宮中祭祀第一の祭典である大嘗祭(だいじょうさい)、新嘗祭(にいなめさい)の起源が示されています。 祭祀の原初の姿はもはや知る術がありませんが、大宝元年(701)に制定された大宝律令から延長5年(927)制定の延喜式にいたり、今日見る体系的な祭祀の基礎が完成されました。律令時代には祈年(きねん)祭、月次(つきなみ)祭、新嘗祭が重視され、また大嘗祭、伊勢の神宮の式年遷宮(しきねんせんぐう)も最大の祭儀として、成立しています。 時代の変遷とともに祭祀も変化していきましたが、宮中祭祀の基本姿勢は、13世紀前半の順徳天皇(第84代)が著された『禁秘抄』の冒頭、「一、賢所(かしこどころ)。凡(およ)そ禁中の作法、神事を先にし、他事を後にす。旦暮あけくれ敬神之叡慮解怠(えいりょけたい)無く白地(あから)さまにも神宮竝(なら)びに内侍所(ないしどころ)の方を以て、御跡(みあと)と為(な)さず」という一文に尽きています。すなわち「宮中の作法はまず第一に神事、その後に他のことがあって、朝夕に神を敬い、かりそめにも伊勢の神宮、また賢所に足を向けて休むようなことがあってはならない」というものです。 15世紀後半の応仁の乱以降は中絶した儀式もありますが、明治維新後は途切れていた祭祀が再興され、また、新しい祭祀が創出され、明治41年の皇室祭祀令によって法的な整備がなされます。また、それぞれの祭祀に対応する国の祝祭日が定められ、宮中祭祀は、国民生活にも広く浸透していきました。皇室祭祀令は新しい皇室典範の施行と同時に廃止されましたが、宮中祭祀はほぼその規定に準拠して、現在も厳修されています。なお、現在、宮中祭祀は皇室の「私事」として扱われていますが、その趣旨は、あくまでも国家・国民の安寧幸福と世界平和を祈られることにあり、象徴天皇にふさわしい「公事」であるとする有力な見解もあります

宮中三殿について

 

宮中三殿とは皇居内吹上御苑の東南にある、賢所皇霊殿(こうれいでん)、神殿(しんでん)の総称で、皇室の祭祀は主としてここと各地の山陵で行われています。明治22年に完成した三殿の高い土塀を巡らせた敷地の広さは約7260平方メートル、その中央に賢所、向かって左が皇霊殿、右が神殿となり、いずれも銅葺きの総檜による入母屋(いりもや)造り。 賢所は左右両殿より大きく、三殿はそれぞれ廊下で結ばれています。 賢所は明治以前の京都御所にもありましたが、皇霊殿と神殿は明治維新以降の宮中祭祀制度の再編にもっとも尊い御殿とされ、かつては恐れ畏(かしこ)むの意味で「威所」「恐所」とも書かれました。明治以前は天皇のお側近く仕えた内侍が奉仕したため(現在は内掌典が奉仕)、内侍所と呼ばれ、また、あるいは温明殿(うんめいでん)、春興殿(しゅんこうでん)という名も残っています。 賢所の次に位置づけられる皇霊殿は、神武天皇から昭和天皇に至る、124代の天皇や歴代外天皇、皇后、皇族方をお祀りしています。 もともと天皇・皇族はそれぞれの陵墓に葬(こも)られていましたが、平安時代以降、仏教の隆盛によって、賢所と同様、内掌典が中心となって奉仕しています。 また神殿には、八神(天皇の守護神である八柱の神)、天神地祇(てんしんちぎ=天つ神、国つ神)が祀られています。構内には、三殿に付属して神嘉殿(しんかでん)、神楽舎、綾綺殿(りょうきでん)、奏楽舎、帳舎(あくしゃ)といった建物がありますが、神嘉殿では新嘗祭が斎行され、綾綺殿では新嘗祭に先立って鎮魂祭の古儀が行われます。 平成16年6月から三殿の耐震劣化調査のため、賢所、皇霊殿、神殿はそれぞれ仮殿にいったんご動座されていましたが、翌7月に還御されました。

現在行われている祭祀

 

宮中祭祀は天皇自ら祭典を行われ、「お告文(つげぶみ=祝詞)」を奏上する大祭、掌典長が祭典を行い、陛下は拝礼される小祭、その他の祭儀の三つにわけられます。 それぞれどのような祭儀があるか、またとりわけ重要な祭儀について簡単に触れておきましょう。

まず、大祭は元始祭(げんしさい=1月3日)、昭和天皇祭(先帝祭=1月7日)春季皇霊祭・春季神殿祭(春分の日)、神武天皇祭(4月3日)、秋季皇霊祭・秋季神殿祭(秋分の日)、神嘗祭(かんなめさい=10月17日)、新嘗祭(11月23日)です。『古事記』雄略天皇条にすでにその伝承を示す歌が見いだせる新嘗祭は、大祭の中で唯一古代から受け継がれた重要な宮中祭祀です。また、毎年営まれる新嘗祭に対して天皇のご即位に際して行われる大嘗祭は「毎世(まいせい)の大嘗」と呼ばれる皇室の最も大切な重儀です。

小祭は歳旦祭(さいたんさい=1月1日)、孝明天皇例祭(1月30日)、祈年祭(2月17日)、香淳皇后例祭(6月16日)、明治天皇例祭(7月30日)、賢所御神楽(12月上旬)、天長祭(12月23日)、大正天皇例祭(12月25日)です。祈年祭は「としごいのまつり」とも読み、農作業の開始を祝い、豊作を祈るお祭りとして、新嘗祭と対になっています。

他に四方拝(1月1日)、奏事始(そうじはじめ=1月4日)、鎮魂祭(11月2日)、節折・大祓(よおり・おおはらえ=6月30日と12月31日)、除夜祭(12月31日)、毎朝御代拝、旬祭(毎月1日、11日、21日)、歴代天皇式年祭、さらに恒例の祭典以外に、ご結婚、ご誕生などに関して、臨時の祭典が行われることもあります。このうち、四方拝は元日の未明、天皇陛下が伊勢の神宮をはじめ四方の神々および山陵をご遥拝になり、この年の五穀豊穣と国家、国民の安寧を祈られます。天皇がお一人で行う、御代行できない重大な儀式です。引用ここまで

 

勤労感謝の日

http://iroha-japan.net/iroha/A02_holiday/14_kinro.html

肉体的な労働のみではない

戦前11月23日は「新嘗祭」〔にいなめさい/しんじょうさい〕で農作物の恵みを感じる日でした。日々の労働に対して「農作物」という形のあるものが目に見えて返ってくることが少ない現代で、勤労の目的を再認識する日という意味がこめられているようです。一方、勤労の意味とは「肉体的な労働によって物品等を生産するということにのみ終始するものではなくて、精神的な方面においても一日一日を真剣に考え、物事の本質へと深めてゆく研究態度にも勤労の大きい意味は存在し、創造し、生産していくことの貴重な意義ある生活が営まれていくことが出来る。物質的にも、精神的にも広い意味での文化財を建設してゆくことは、生産ということの正しい理解の仕方である」と戦後発行された衆議院文化委員受田新吉著の「日本の新しい祝日」には記載されていました。

「瑞穂の国」の祭祀

勤労感謝の日が制定される以前は、「新嘗祭」が行われていました。新嘗祭は古くから国家の重要な行事であり「瑞穂の国」の祭祀を司る最高責任者である大王〔おおきみ〕(天皇)が国民を代表して、農作物の恵みに感謝する式典でした。「新嘗」とはその年収穫された新しい穀物のことをいいます。農業中心の時代、この行事はとても重要な儀式でした。「勤労感謝の日」は1948年に定められましたが、この日を制定するにあたては、元々の「新嘗祭」として祝いたいなど様々な意見があったようです。しかし「労働」とは本来「農業に従事して生産を行うもの」だけを言うのではなく、今日のサービス産業なども含めた幅広い意味を持つことから「新嘗祭の日」という考えは却下され、現在の「勤労感謝の日」が制定されました。

アメリカの「Labor Day」

勤労感謝の日はアメリカの「Labor Day(直訳:勤労の日)」 の影響を受けているのでは、という説があります。しかしアメリカのLaborDayは9月の第1月曜で、「勤労感謝の日」とは大きなずれが生じます。アメリカにはLaborDayのほか、11月最後の木曜日に「Thanks Giving Day(感謝の日)」があります。日付や新嘗祭との関係を考えると、こっちの解釈の方がしっくりきますね。しかし、日本の勤労感謝の日はあくまでも収穫を祝うだけではなく、広義の意味で「日々の勤労に感謝する日」なのです。(引用ここまで)

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共同通信世論調査に大爆笑!内閣支持率60.7%!こんな世論調査に赤面しない日本の情報手段のテレビ・新聞に大喝だな!

2016-11-27 | 世論調査

こんな矛盾した「世論」をつくる情報伝達手段の劣化に呆れているばかりでは思うつぼ!

どの世論調査も積極的支持と消極的支持が判るように調査すべき!

内閣支持率と政策支持率の関係を解明すべし!

東京新聞 米軍駐留費増は不要86% 内閣支持60%、共同通信調査  2016年11月27日 16時25分

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2016112701001058.html

共同通信社が26、27両日実施した全国電話世論調査によると、米国のトランプ次期大統領が選挙戦で負担増に言及した在日米軍駐留経費(思いやり予算)について「日本の負担を増やす必要はない」との回答が86・1%に上った。「増やした方がよい」は9・2%にとどまった。内閣支持率は60・7%で、前回10月の53・9%から上昇した。支持率が60%を超えるのは2013年10月26、27両日調査以来。不支持率は30・4%だった。年金支給額の抑制を強化する年金制度改革法案の賛否を問うと、反対(58・0%)が賛成(33・8%)を上回った。(共同)(引用ここまで

 安倍首相の「 火のような猩々緋の服折』は誰がつくって着せているか!

菊池寛『形』 (青空文庫)

http://www.aozora.gr.jp/cards/000083/files/4306_19830.html

摂津(せっつ)半国の主であった松山新介の侍大将中村新兵衛は、五畿内中国に聞こえた大豪の士であった。
 そのころ、畿内を分領していた筒井(つつい)、松永、荒木、和田、別所など大名小名の手の者で、『鎗(やり)中村』を知らぬ者は、おそらく一人もなかっただろう。それほど、新兵衛はその扱(しご)き出す三間柄(え)の大身の鎗の鋒先(ほこさき)で、さきがけ殿(しんがり)の功名を重ねていた。そのうえ、彼の武者姿は戦場において、水ぎわ立ったはなやかさを示していた。火のような猩々緋(しょうじょうひ)の服折を着て、唐冠纓金(えいきん)の兜(かぶと)をかぶった彼の姿は、敵味方の間に、輝くばかりのあざやかさをもっていた。
「ああ猩々緋よ唐冠よ」と敵の雑兵は、新兵衛の鎗先を避けた。味方がくずれ立ったとき、激浪の中に立つ巌のように敵勢をささえている猩々緋の姿は、どれほど味方にとってたのもしいものであったかわからなかった。また嵐(あらし)のように敵陣に殺到するとき、その先頭に輝いている唐冠の兜は、敵にとってどれほどの脅威であるかわからなかった。
 こうして鎗中村の猩々緋と唐冠の兜は、戦場の華(はな)であり敵に対する脅威であり味方にとっては信頼の的(まと)であった。
「新兵衛どの、おり入ってお願いがある」と元服してからまだ間もないらしい美男の士(さむらい)は、新兵衛の前に手を突いた。
「なにごとじゃ、そなたとわれらの間に、さような辞儀はいらぬぞ。望みというを、はよういうて見い」と育ぐくむような慈顔をもって、新兵衛は相手を見た。
 その若い士(さむらい)は、新兵衛の主君松山新介の側腹の子であった。そして、幼少のころから、新兵衛が守り役として、わが子のようにいつくしみ育ててきたのであった。
「ほかのことでもおりない。明日はわれらの初陣(ういじん)じゃほどに、なんぞはなばなしい手柄をしてみたい。ついてはお身さまの猩々緋と唐冠の兜を借(か)してたもらぬか。あの服折と兜とを着て、敵の眼をおどろかしてみとうござる」
「ハハハハ念もないことじゃ」新兵衛は高らかに笑った。新兵衛は、相手の子供らしい無邪気な功名心をこころよく受け入れることができた。
「が、申しておく、あの服折や兜は、申さば中村新兵衛の形じゃわ。そなたが、あの品々を身に着けるうえは、われらほどの肝魂(きもたま)を持たいではかなわぬことぞ」と言いながら、新兵衛はまた高らかに笑った。

 そのあくる日、摂津平野の一角で、松山勢は、大和の筒井順慶の兵と鎬(しのぎ)をけずった。戦いが始まる前いつものように猩々緋の武者が唐冠の兜を朝日に輝かしながら、敵勢を尻目にかけて、大きく輪乗りをしたかと思うと、駒(こま)の頭を立てなおして、一気に敵陣に乗り入った。
 吹き分けられるように、敵陣の一角が乱れたところを、猩々緋の武者は鎗をつけたかと思うと、早くも三、四人の端武者を、突き伏せて、またゆうゆうと味方の陣へ引き返した。
 その日に限って、黒皮縅(おどし)の冑(よろい)を着て、南蛮鉄の兜をかぶっていた中村新兵衛は、会心の微笑を含みながら、猩々緋の武者のはなばなしい武者ぶりをながめていた。そして自分の形だけすらこれほどの力をもっているということに、かなり大きい誇りを感じていた。
 彼は二番鎗は、自分が合わそうと思ったので、駒を乗り出すと、一文字に敵陣に殺到した。
 猩々緋の武者の前には、戦わずして浮き足立った敵陣が、中村新兵衛の前には、ビクともしなかった。そのうえに彼らは猩々緋の『鎗中村』に突きみだされたうらみを、この黒皮縅の武者の上に復讐せんとして、たけり立っていた。
 新兵衛は、いつもとは、勝手が違っていることに気がついた。いつもは虎に向かっている羊のような怖気(おじけ)が、敵にあった。彼らは狼狽(うろた)え血迷うところを突き伏せるのに、なんの雑作もなかった。今日は、彼らは戦いをする時のように、勇み立っていた。どの雑兵もどの雑兵も十二分の力を新兵衛に対し発揮した。二、三人突き伏せることさえ容易ではなかった。敵の鎗の鋒先が、ともすれば身をかすった。新兵衛は必死の力を振るった。平素の二倍もの力さえ振るった。が、彼はともすれば突き負けそうになった。手軽に兜や猩々緋を借(か)したことを、後悔するような感じが頭の中をかすめたときであった。敵の突き出した鎗が、縅の裏をかいて彼の脾腹(ひばら)を貫いていた。(引用ここまで
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韓国大統領退陣要求集会にNHKは27万!民放は150万から200万!やっぱりNHK!安倍政権も朴政権も五十歩百歩だ!

2016-11-27 | マスコミと民主主義

韓国国民が怒っている朴政権のやっていることと安倍政権は同じではないのか!

朴・安倍政権をリンクさせない報道から学ぶことは何か!

官邸は国民が立ちあがることを恐れている!

10月8日から11月26日まで首相の動向を視ると判る!

安倍晋三首相の人脈の断面を視れば一目瞭然!

11月16日(水)6時13分31分、東京・大手町の読売新聞東京本社。講演。渡辺恒雄読売新聞グループ本社主筆、蔭山秀一関西経済同友会代表幹事ら同席

11月15日(火)7時54分、東京・新宿のビル「壱丁目参番館」。評論家金美齢氏の事務所で新藤義孝元総務相、古屋圭司自民党選対委員長、柴山昌彦首相補佐官らと会食。9時58分、東京・富ケ谷の私邸。

10月31日(月)6時30分、公邸。エドワード・ルトワック米戦略国際問題研究所上級研究員と会食。秋葉剛男外務省外務審議官同席。8時27分、ルトワック氏を見送り。

10月24日(月)6時57分、東京・紀尾井町のホテルニューオータニ。宴会場「AZALEA」でサントリーホールディングスの佐治信忠会長、新浪剛史社長と懇談。麻生太郎副総理兼財務相ら同席。7時37分、東京・赤坂の中国料理店「赤坂飯店」。山口県の大西倉雄長門市長、中尾友昭下関市長らと会食。9時12分、東京・富ケ谷の私邸。

10月21日(金)7時2分、東京・赤坂の日本料理店「古母里」。読売新聞東京本社の田中隆之編集局総務前木理一郎政治部長と会食。10時26分、東京・富ケ谷の私邸。

10月18日(火)5時34分、米国ユダヤ人協会のハリス理事長。6時5分、谷内正太郎国家安全保障局長、北村滋内閣情報官。17分、北村氏。37分、公邸。宿泊

10月17日(月)7時7分、東京・永田町の赤坂エクセルホテル東急。レストラン「赤坂ジパング」で産経新聞社の阿比留瑠比論説委員らと会食。10時24分、東京・富ケ谷の私邸。

行き詰まった安倍政権のやっていることは世論誘導・強行採決あるのみ!

NHK 韓国抗議集会、民主化後最大27万人 11月27日 6時16分

http://www3.nhk.or.jp/news/html/20161127/k10010785791000.html?utm_int=error_contents_news-main_002

韓国の検察がパク・クネ(朴槿恵)大統領の知人と側近を起訴し、パク大統領についても「共謀関係にあった」とする判断を示してから27日で1週間です。パク大統領の退陣を求めてソウル中心部で26日から夜を徹して開かれた抗議集会は、民主化以降で最大規模のおよそ27万人に達し、野党側は大統領の弾劾に向けた動きを加速させる構えです。

韓国の検察は今月20日、パク・クネ大統領の長年の知人と側近の合わせて3人を、職権乱用などの罪で起訴するとともに、パク大統領についても「相当な部分で共謀関係にあった」とする判断を示しました。

検察の発表から1週間を迎える中、ソウル中心部では、26日午後から27日午前5時まで再び抗議集会が開かれ、警察のまとめによりますと、参加者は26日夜の時点で1987年の民主化以降、最大規模のおよそ27万人に達しました。

参加者たちはプラカードなどを手に「パク大統領は退陣しろ」などと叫び、大統領府からわずか200メートルの場所まで行進して、警察の機動隊とにらみ合う場面も見られましたが大きな混乱はありませんでした。

一方、パク大統領の弾劾を目指す野党3党は26日にそれぞれ集会を開き、このうち第2野党「国民の党」のパク・チウォン(朴智元)非常対策委員長は「与党の非主流派の議員たちと協力して40票以上を確保した」と述べ、大統領の弾劾を求める議案の可決に必要な28人以上の与党議員の賛同を取り付けたと強調しました。

大統領に対して厳しさを増す世論を追い風に、野党3党としては、週明けに議案を取りまとめ、来月2日にも国会の本会議で可決してパク大統領の職務停止に向けた動きを加速させたい考えです。(引用ここまで

過去最多200万人参加か 韓国大規模集会 

日テレ 2016年11月26日 18:30

http://www.news24.jp/articles/2016/11/26/10347551.html?cx_genre-pcclick=genre-international

韓国では26日夕方から朴槿恵大統領の退陣を求める大規模な集会が開かれている。全国で過去最多となる200万人が参加するとみられ、大統領の弾劾にむけた動きは勢いを増しそうだ。ソウルから中継。
ソウルは26日、初雪を観測するなど厳しい冷え込みとなっている。参加者たちはいま、大統領府を取り囲もうと行進を続けている。
朴大統領の退陣を求める大規模な集会は5週連続で、一連の事件で検察が大統領を「容疑者」と認定してからは初めて。主催者はこれまでで最大規模となるソウルで150万人、全国で200万人が参加するとしている
今回、市民の波は大統領府の手前200メートルまで迫る予定で、大統領の退陣を求める市民の包囲網は一段と狭まっている。
集会参加者「国民の意思に反して退陣しないことに怒っている」「自ら退陣しないなら、時間がかかっても弾劾すべきだ」
朴大統領の弾劾案をめぐり、野党は早ければ来月2日の国会での採決を目指して準備を本格化させているが、世論の後押しを得て、弾劾にむけた動きはさらに勢いづきそうだ。(引用ここまで

ソウルで5回目の大統領退陣要求集会、弾劾が焦点に

TBS 27日01:26

http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2924890.html

韓国で朴槿恵(パク・クネ)大統領の退陣を求める5回目の集会が開かれ、過去最多の市民が参加しました。こうした世論を受けて、大統領の弾劾に向けた動きが焦点になっています。ソウルで開かれた大統領の退陣を要求する集会には、主催者発表で過去最多の150万人が参加しました。大統領府の前では、一部の参加者と機動隊の小競り合いも起きました。韓国の野党3党は、来月9日までに大統領の弾劾訴追案を採決する方針ですが、与党側は応じない構えです。しかし、与党内でも弾劾に賛成する議員が増えており、今後は、弾劾をめぐる与野党の攻防が焦点になります。(引用ここまで

韓国で今週末も退陣求め抗議デモ 各地であわせて約160万人参加

FNN 11/26 21:23

http://search.jword.jp/cns.dll?type=lk&fm=127&agent=11&partner=nifty&name=FNN

韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領の退陣を求めて、今週も各地で、あわせて160万人規模の抗議集会が開かれた26日で5回連続となった週末の集会には、主催者発表で、ソウルなど、あわせておよそ160万人が参加した。午後8時には、参加者たちが暗い国内を表現するため、ろうそくを消し、大統領の退陣を求めて、一斉に大声を上げた。今回は、当局の許可により、デモ行進は、大統領府からおよそ200メートルの地点にまで迫った。退陣への圧力は強まるばかりで、最新の政権支持率も歴代最低の4%に落ちている。(引用ここまで

韓国・朴大統領への抗議デモ ソウルで150万人参加

テレビ朝日 2016/11/27 00:18

http://news.tv-asahi.co.jp/news_international/articles/000088741.html

韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領の弾劾(だんがい)への動きが加速するなか、大統領の退陣を求める抗議デモが行われ、ソウルではこれまでで最多となる150万人が参加しました。

デモの参加者:「他の人と同じように怒っていて、このままじゃいけないと思い参加した」「国民の声を聞くのはそんなに大変か。早く退陣してほしい」

朴大統領への抗議デモは今回で5週連続となり、主催者によりますと、ソウルで150万人、全国で190万人が集まりました。参加者はプラカードやろうそくを持ち、「退陣しろ」と叫びながら行進しました。26日は、裁判所が初めて、大統領府からわずか200メートルの地点までデモ行進を許可し、警察の機動隊とにらみ合う場面もありました。朴大統領の支持率は史上最低の4%にまで下落していて、弾劾を求める議案が来週にも可決される見通しです。(引用ここまで

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いじめの議論で抜けている憲法活かす論はこれだ!憲法形骸化こそいじめの温床!政治がいじめの権化!米軍基地と原発を見れば一目瞭然!

2016-11-27 | 子どもの権利条約

学校・子どものいじめは社会を映す鑑だな!

そもそも無菌状態の子どもを守る免疫力は何か!

子どもをいじめから守る抑止力は何か!

子どもの環境にはいじめ=人権侵害が満ち溢れている!

学校が人権と民主主義の学校になっているか!

子どもの権利条約・憲法を教えているか!

名寄新聞  いじめの心  2016/11/26 20:05
http://www.nayoro-np.com/kankodori/2016-11-26.html

人の行為に必ず理由がある。「いじめ」にもいえる

▲「いじめはしてはいけない」「いじめられる人の気持ちを考えて」と教える姿を目にするが、それだけではなくならないと感じる。「いじめられる側」だけでなく「いじめる側」の気持ちを考える必要がある

▲いじめの多くは「心の弱さ」から生じると聞く。優越感や劣等感、嫉妬、自分では解決できない問題への不安やいら立ちーそれらを理性で抑えきれず、弱い立場へぶつけてしまう。いじめをなくすために「罰則」を与えたとしたら、そのつらさから再び「いじめ」を生み出すかもしれない。なくすにはいじめる側の「心の弱さ」や「抱える問題」を解決していく必要がある

▲要因の多くは取り巻く環境にあり、家庭、学校、地域住民が一体となり、子どもが自信と安心を持って、個々を尊重し合える社会を築くことが大切と感じる

▲子どもが他の子どもに物を投げた、あるいは他の子どもをたたいたのを見掛けたとする。「そんなことしちゃだめ、謝りなさい」などと叱ってはいないだろうか。まず「なぜやったの」と理由を聞くべきだろう

▲事実、相手の言葉に傷つけられ、感情を抑えられずにやったというケースもある。誰もが互いを理解しようと努力することで、いじめを減らせるのではないか。(引用ここまで)

いじめ問題で欠落している視点はこれだ!

これが全てに貫かれているか!

われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。すべて国民は、法の下に平等であつて、人種、信条、性別、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係において、差別されない。

米軍基地・原発立地地域と交付金こそ

「いじめ」の「構造」そのものだろう!

(よくある質問)沖縄振興予算について

http://www.pref.okinawa.jp/site/kikaku/chosei/kikaku/yokuaru-yosan.html

辺野古3地区に頭越し交付金 移設賛同 条件付き 

東京朝刊 2015年11月28日

http://www.tokyo-np.co.jp/article/politics/list/201511/CK2015112802000136.html

米軍普天間(ふてんま)飛行場(沖縄県宜野湾(ぎのわん)市)移設に伴う名護市辺野古(へのこ)への新基地建設計画をめぐり、政府は二十七日、予定地に隣接する「久辺(くべ)三区」に二〇一五年度に合わせて最大三千九百万円の補助金を直接交付する新たな制度を創設した。これまで三区は新基地建設の賛否を切り離して振興策を要望してきたが、移設計画に賛同することを事実上の要件としている。

福井県と地元自治体は危険なもんじゅ依存・服従は止めて自治体として自立すべきだ!2016-09-22 | ゲンパツ

 

原発停止続くほど、交付金減額
柏崎刈羽原発 新年度予算で再稼働促す

http://www.niigata-nippo.co.jp/news/politics/20160105226846.html

昨年末に閣議決定された2016年度予算案には、政府として原発再稼働を推進する姿勢が色濃く反映された。原発立地自治体への交付金制度を見直し、再稼働した原発の地元を優遇。再稼働しない原発の立地自治体は実質的に交付額が減る。事実上、早期再稼働を促す内容となっている。

原発誘致で財政危機に陥った柏崎市~原発麻薬の恐ろしさ

http://kasakoblog.exblog.jp/19004306/

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