度々というか、しつこく愛国者の邪論に登場する「若者」の言葉と発想をみていて、何でこうしたアナクロニズムに侵されてしまっているのだろうか、と不思議な気持ちになります。しかし、こうした「若者」の存在するのも事実です。したがって、こうした社会現象を解明していかなければならないと思うのであります。同時に対策を講じていかなければと思う今日この頃でもあります。
そこで、まず以下の資料を掲載して考えてみました。
さて、以下の文章を政治に当てはめたらどうでしょうか?政界のサブリミナル現象が、若者にどのような影響を与えているか、考えてみたいものです。戦前もそうでしたし、現在も進行形ではないでしょうか?
「CM天気図」 「サブリミナルの効果」 天野祐吉(コラムニスト)2012年10月24日
ヒットCMだけが、人びとに影響を与えるわけではない。とくに話題にもならないのに、繰り返しテレビに流れることで、人びとが知らず知らずのうちに影響を受けていくようなCMがある。で、そういうCMのほうが、実は、派手なヒットCMよりもずっと影響力が強がったりする。
しばらく前から「日本のどこかで」というダイハツの企業CMが流れている。「第3のエコカーを選ぼう」というテーマで、都会から地方に生きる場を移した吉岡秀隆ら若者たちの日常を描く連続ドラマ仕立てのCMだ。
ツクリはていねいで好感が持てるけれど、ヒットCMのような強さはない。が、とくに話題にはならなくても、このシリーズには記憶のどこかに引っかかるような何かがある。ドラマそのものというよりも、ドラマを成り立たせている豊かな自然の風景が、何度も繰り返し現れることで、じかに心の印画紙に焼きつけられる感じと言えばいいか。
それは、人びとの意識下に働きかけるサブリミナル効果に近い。
都会のパサパサした生活より、ああいう風景の中で過ごす日々のほうが楽しそうな、そんなイメージを意識下に与える効果である。
サブリミナル効果というと、悪者の代名詞のように言われることが多い。げんにこれまで、そういう広告もあった。が、よくも悪くもCMにサブリミナル効果はつきものであって、それをどう考え、どう扱うかに、作り手の姿勢が問われると言っていいだろう。
テレビで繰り返し見ているうちに、こわい政治家の顔が親しみのある顔に見えてくるのは困るけれど、このCMのような風景が何度も流れてくるのは、決して悪いことじゃないと思う。(引用ここまで)
次です。現在の「若者」というか、日本国民が陥っている「脅威」に対する「抑止力」としての軍事力、日米安保条約=「日米軍事同盟」の「必然性の根拠」となっている「世界の現実」「アジアの現実」は、どのように「サブリミナル効果」を与えているでしょうか?
その点で、以下の文章は、全く逆の事実を提起しているのですが、こうした事実は「サブリミナル効果」としては成り立たないというのが、現実ではないでしょうか?
次は、森原公敏「9.11から10年 変化する世界と平和秩序」(『前衛』11年10月号)より引用しました。
「大規模武力紛争のパターンー2001~2010年」―「ストックホルム国際平和研究所2011年年鑑」から
2010年には世界の15ヵ所で15の大規模武力紛争が発生した。2001年の19からは減少したが、2004年と2007年には14まで低下していた。2001年から2010年の10年間には、28ヶ所で29の大規模な武力紛争が発生している。すなわち、アフリカで10件(内、現在発生しているもの4件=ルワンダ、ソマリア、スーダン、ウガンダ)、米州3件(同3件=コロンビア、ペルー、米国)、アジア9件(同5件=アフガニスタン、インド《カシミール》、ミヤンマー《カレン》、パきスタン、フィリピン)、欧州2件(同0)、中東5件(同3件=イラク、イスラエル《パレスチナ領内》、トルコ《クルド地域》)、である。(図1)
国家間の大規模武力紛争は七年連続でなかった。2001年から2010年の間に起きた国家間の大規模武力紛争は2件にとどまる。すなわち、インドとパキスタン間(1997~2003年)、米国および同盟諸国とイラク間(2003年)である。残る27件は全て国内の紛争で、8件は領土に関する、19件は政権を争う武力紛争である。2010年の大規模な国内武力紛争の内6件は国際化された、すなわち国内紛争当事者の一方を支援する国家の軍隊が関与する、武力紛争となっている。
(注)大規模武力紛争とは、年間に戦闘による直接の死者が1000人を超える場合。いったんこの規模の武力紛争が発生すれば、その武力紛争は25人以上の死者が出た年には大規模武力紛争として数える。
「武力紛争1946年~2010年」―「オスロ国際平和研究所ジャーナル」から
2010年の世界では、25ヵ所で30の武力紛争(PRIOの定義は、直接の戦闘による死者が年間25人以上の紛争)が発生した。これは2009九年の36件から大きく減少している。09年に起きていた36の武力紛争のうち8件は2010年になくなったが、新たに二つの武力紛争が発生した。この傾向の背景にはアフリカでの武力紛争の減少があると考えられる。戦争(戦闘による死者が年間時の六割で、武力紛争の長期的減少の傾向は引き続き明らかである。(図2)
09年と同じく国家間の武力紛争はなく、すべて国内の武力紛争(内戦)である。2004年から2010年まで、国家間の武力紛争は2008年にジブチとエリトリアとの間に発生した小規模の1件のみである。30件の武力紛争のうち9件は国際化された国内武力紛争-武力紛争当事者の一方あるいは両方を外国軍が支援している―となっている。すなわち、アフガニスタン、アルジェリア、イラク、モーリタニア、ルワンダ、ソマリア、ウガンダ、米国(アルカイダとの戦闘)、イエメンである。
地域的にはアフリカとアジアでの武力紛争の減少が著しい。サハラ以南アフリカでは2001年以後武力紛争が大きく減少した。世界全体としては冷戦後の1992年が、武力紛争のピークだったが、サハラ以南アフリカではピークは1998年だった。それが2005年には1970年代半ば以来もっとも少ない6件となった。その後、増大することもあったが、2010年は8件と、ピーク時の半分にまで減少した。
2008年の経済危機後、多くのアフリカ諸国は素早い経済回復を果たした。とくに、紛争多発地域だったエチオピアとガーナで顕著な成長を果たしている。これは、多くのアフリカ諸国の国民にとっては、将来に楽観的希望を抱かせるもので、政府や反政府勢力の徴兵に応じることも少なくなる。
2010年における地域別の武力紛争は以下のとおり。
欧州1=ロシア
中東5=イラン・イラク・イスラエル・トルコ・イエメン
アジア12=アフガニスタン・インド(4ヶ所)。ミャンマー(2ヶ所)。タイ・タジクスタン
アフリカ9=アルジェリア・中央アフリカ・チャド・エチオピア・モーリタニア・ルワンダ・ソマリア・スーダン・ウガンダ
米州=コロンビア・ペルー・米国
~(略)~
ブッシュ政権が進めた9.11以後の「対テロ戦争」と金持ち優遇税制、さらに2008年国際経済危機の際の銀行・大企業の救済と景気刺激のための財政出動によって、米国の債務は極端に悪化した。クリントン政権最後の年の2000年には累積債務5.7兆ドル、予算は1.7兆ドルで黒字1958億ドルだったものが、2011年には累積債務14.6兆ドル、予算規模3.6兆ドル、赤字1.4兆ドルである。
巨額の軍事予算が重大な影響を与えたことは明らかだ。2000年10月から2011年九月末までの国防予算の累計は5兆9000億ドル(2000年3029億ドルから2011年5451億ドルに拡大)。これに2011年9月末までで1兆3000億ドルに上る対テロ戦争遂行費用が加わり、合計で7兆2000億ドルとなる。さらに、国土安全保障予算支出6360億ドルを加えるとこの10年間の米国の軍事支出は8兆ドル規模となる。米軍事支出は世界の軍事費のほぼ50%を占めている。もはや、このような規模で支出し続けることはできない。(略)
そしていま、現実に、国家間の武力紛争はなくなり、武力紛争は国家内部の民族や宗教間の対立を理由とするものとなり、その件数も明らかに減少している。武力紛争の減少には経済的発展も貢献しているが、なにより地域機構や国連による紛争の解決、対立を武力紛争に発展させないための枠組みと取り組みの発展があったことが、先に紹介したいくつかの武力紛争の分析・研究で明らかにされている。
9.11以後、もっとも深刻な脅威の一つである国際テロに向かい合ったアメリカと世界の軌跡は、アメリカという超大国が普遍的妥当性を持つとみなす原則に基づく国際秩序を構想し、全世界に配備した強大な軍事力でそれ維持するというやり方では、現代の世界規模の脅威に対処することはできないことを示している。9.11から10年たったいま、世界の新しい平和秩序の核心は、国連とともに、「武力不行使」という国連憲章の精神に立った平和と安定のための地域共同の発展にある、といえる。(引用ここまで)
さてここで、もう一つ指摘しておかなければならないことがあります。それは石原氏のような軍事優先論者は、軍事力や戦争、武力行使の際に、どれだけのカネが必要か、について想定して発言しているのでしょうか、ということです。アメリカの例を見れば、またかつての日露戦争や大東亜戦争をみれば、一目瞭然です。
愛国者の邪論に登場する「好戦的若者」は、こうした事実をどのように把握しているのでしょうか?戦争をどれだけイメージできているか、全く不思議です。戦争映画など、映像では弾丸が飛んでいく側に立ってみていることが多いのですが、弾丸が自分に向かって飛んでくることを、どれだけイメージできるか、恐らくイメージできていないでしょう。
何故ならば、こうした映像はほとんど放映されていないからです。山本美香さんの最期の映像も、そこまでは映していませんでした。それほど瞬く間でした。ここに人間の想像力の限界というか、無知なるが故の傍若無人さが浮き彫りになっているように思います。撃つ側と撃たれる側があるのだという当たり前のことを想像できない人間もいるからこそ、戦争が起こったのだと思います。
そこで思いだすことは、「撃ちてし止まん」思想です。安倍総裁が尖閣問題で一歩も引かないという「決意」のウラにある思想とも言えます。しかし、その安倍氏にとってみても、こまで述べてきた視点に立ってものを考えることは欠落しているのだと思います。それは安倍氏の中にある人権軽視思想をみれば明瞭です。代表質問の際に、得意げに語っていた(人の命は)「鴻毛より軽し」思想でもあるわけです。
http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121015/plc12101517480007-n1.htm
さて次の文章は、昨日の国会における志位・野田論争の一場面です。
内容的には意識的に噛み合わせを拒んだ野田首相だったように思います。マスコミも、この質問については、黙殺しました。日米安保条約に対して、ま逆のテーゼである日米友好条約を対置したのです。まさに既成の日米関係からの脱却を提起したのですが、「既成政党」論を流布させ、「サブリミナル効果」を図っているマスコミですが、この点における「既成外交」論を流布させ、「サブリミナル効果」を図ることはしませんでした。
だが、このことは、マスコミをはじめとした日米軍事同盟深化派の強さではなく、弱さを示したものということが判りました。今後は日米平和友好条約案を策定する運動を展開していく必要性を感じました。
それは野田首相の答弁に示されていました。現代社会において、国家間の紛争が減少してきているなかで、相も変わらず「抑止力」論神話に縛られているのです。これとま逆の「サブリミナル効果」をどのようにつくりだしていくか、ここにかかっているように思いました。
このことはオスプレイについての位置づけが、全く矛盾していることに気づいていない野田首相に象徴的でした。以下掲載しておきます。
志位和夫委員長質問
日本共産党は、オスプレイ配備撤回、普天間基地の無条件撤去を求めます。米軍基地の全面撤去を求めるとともに、アメリカ言いなりの根源にある日米安保条約を廃棄して、日米友好条約にかえることを強く要求します。総理の見解を求めて質問を終わります。
野田佳彦首相答弁
オスプレイの運用に際しては、安全性はもとより、地域住民のみなさまの生活への最大限の配慮が大前提である。米国はオスプレイに関する合同委員会合意を順守し、安全性等に最大限配慮していると認識しているが、政府としてもこの合意が順守されるようフォローしていく考えであり、引き続き米側との間で必要な協議を行っていく。オスプレイの訓練等について本土を含む地元自治体にご懸念、ご不安があることは十分認識している。地元のみなさまの声に真摯に耳を傾けつつ、オスプレイの運用についてご理解がいただけるよう丁寧にご説明していく。
わが国周辺地域の安全保障環境については厳しさを増している。こうした中、日米安保条約の下、米軍の前方展開を確保し、その抑止力をもって日本の安全を確保していくことが最も堅実的かつ適切と考えている。オスプレイは米海兵隊の能力の中核を担うすぐれた装備であり、その日本への配備はわが国の安全保障にとって大変大きな意味がある。(引用ここまで)
さて最後の資料です。瀬地山氏の論法は大変参考になりましたので、これに留めておきます。こういう視点での「サブリミナル効果」をどのようにつくりだしていくか、マスコミが、こうした視点で映像を流し、コメンテーターが解説していったのであれば、「若者」のなかに着実に変化が出てくることは想像に難くありません。
そういう意味で、軍事力で紛争を解決するのであれば、どのように解決するのか、多くを語らせること、紛争を非軍事的手段・平和的手段で解決するのであれば、どのような多様な方法があるか、たくさんの方法を提示していくこと、これを「サブリミナル効果」によってつくりだしていくこと、このことで、軍事力に回すカネを平和のために創出して、暮らしを豊かにしていく展望を示していく、そんな方法を考えてみました。
「朝日」2012年10月27日付
私の視点 領土問題の報道 日中韓の主張を相対化せよ
東大大学院教授(ジェンダー論) 瀬地山 角(せちやま かく)
日中韓の間で領土問題がかまびすしい。東アジアをフィールドとする研究者として、やるせない思いがしている。報道をみる限り、各国のメディアが、自国の領土とする根拠について、恐ろしいほど画一的に自国政府の主張のみを伝えていることが、打開を難しくしている一因だと思えてならない。
日本はこう説明する。竹島(独島)領有は1905年の島根県への編入が根拠である。尖閣諸島(釣魚島)は明治政府が沖縄県に編入したあと、72年の沖縄返還とともに再び日本領土になったが、中国・台湾が70年代に突然、領有権を主張しはじめた。
これに対し韓国は、新羅に512年に帰属した于山国が于山島(現・独島)を含むと主張する。また中国は、明朝が琉球との冊封関係の中で釣魚島を認識し、15世紀には正史に載っているとする。
そもそも人の住んでいた歴史が長くない島ではある。領有を巡る主張が食い違うのも、ある程度避けられないのかもしれないが、それにしても、である。
ロンドン五輪で男子サッカーの韓国選手が、竹島の領有権を主張するメッセージを掲げた問題や、野田佳彦首相の親書をめぐるごたごたの際も、日韓の人々はまったく違う「言論空間」にいた。
韓国人にとって「独島は我が領土」という主張はあまりに自明で、五輪憲章が禁じる政治的メッセージとは考えない。むしろ日本のサポーターが、軍国主義の象徴である旭日旗を振りかざすことこそ、政治的だと思う。
親書について、日本では返送されたことが「非礼」とされた。一方、韓国では、大統領に親書が届く前に内容が日本のマスコミに出たのは不快であり、親書を持っていった韓国大使館員が日本の外務省の建物に入れなかったのは、戦時にもあり得ない非礼である、と報道した。受け取らずに返したことはほとんど問題視せずに、だ。
なにも韓国や中国の言い分に理があると言いたいのではない。韓中の報道も明らかに自国中心的だ。問題は、自国の主張にしか触れない国民は、相手の言動が非合理的にしか見えず、簡単に排外主義に飛びついて、戦時下のような強烈なナショナリズムが増幅されるという点にある。これでは対話そのものが成立しない。
こうした状況は、戦前の日本の大政翼賛体制のもと、メディアが大本営発表を垂れ流した事実と、本質的に違うといえるだろうか?
「冷静な対応を」と主張するのなら、自国の主張だけでなく、相手の思考回路も分かる、幅広い視野の報道をするのが、メディアの役割ではないだろうか。(引用ここまで)