東京都澁谷區東の實踐女子大學香雪記念資料館にて、「幻影の日本・憧憬の西洋」展を觀る。

十九世紀後半、西洋と云ふ未知の世界の藝術に惹かれた日本人女性、また東洋ニッポンの藝術に興味を持った米人女性それぞれの顛末を、遺された作品から見ていく。
清原玉は幕末江戸の富裕層に生まれ、繪の道を志すなかで伊國人彫刻家ヴィンツェンツォ・ラグーザと出會ひ、二十二歳の時(明治十五年)にラグーザに伴はれて姉と共に伊國へ渡り、姉はのちに帰國するが玉は留まって1901年にラグーザと結婚、耶蘇教徒となって“エレオノーラ・ラグーザ”と改名、在伊の画家・教育者として活動してゐたが、1922年に欧州を視察旅行した日本人彫刻家の訪問がきっかけとなり、晩年の1933年(昭和八年)、半世紀ぶりに帰國した時には、すっかり日本語を忘れた西洋人になりきってゐた云々。
當時のニッポンでは“ラグーザ玉”と呼ばれたこの女性画家が、いかに長い年月を異國の風土において染まっていったかは、ニッポンでラグーザ氏に出會って西洋画を學んでゐた頃の、ニッポン人の眼で描いた作品と、

(※案内チラシより、以下同)
すっかり西洋人化した眼でニッポンを描いた後年の作品とを比べて瞭然、

ああかうなるのか、と思ふうち、私が二昔前に當時の仕事で渡佛した際、現地で生活するニッポン人たちに會ふ機會があったが、妙に佛人化した國籍不明な人々であったことを、思ひ出した。
米國人版画家のヘレン・ハイドはかねてより關心のあった日本へ1899年(明治三十二年)に訪れると、フェノロサの紹介で江戸幕府の御用繪師だった狩野友信から繪を學び、来日中の版画家からは木版画を學び、いらい日米間を往復しながら創作活動を續けるが、やがて体調不良となり、またニッポンへの關心も薄れ、大正三年(1914年)に帰國して死去云々。
作品を見ると、いかにも異國人らしい東洋人に對する固定觀念──“偏見”と云ふ膜を通して見たニッポン人像に始終しており、

そのポンチ繪じみた作風からも、この女性版画家はニッポンに對しては憧憬と云ふより、興味や好奇心程度の感覺だったにすぎず、だから要するに最後にはニッポンに“飽きた”のではないか、と思へてくる。
西洋藝術に惹かれた女性、東洋藝術に興味を持った女性と、互ひに未知なる異國へ想ひが交差した先に私が見たのは、どっちつかずに終った冷たい現實の一例、そして「さういふものサ」などとしたり顔をする、私自身の姿である。