橫濱開港資料館で、二部構成で企画された日米和親條約170周年記念特別展を觀る。
“Part1”は「外国奉行─幕末の外務省」で、江戸幕府の終はりに始まった外交の部署と、その担當官たちの氣概を、最前線で記された文書などから追っていく。
安政五年(1858年)六月に日米修好通商條約が締結された直後の七月八日、老中の下に外交専門の實務官僚として外國奉行が創設され、任命された秀才なる外交經験者五名の初仕事が、露國ほかとの通商條約締結云々。
“不平等條約”の惡名も高きこの條約、世界の時勢に圧されてやむなしとは云へ、水野筑後守忠德のやうに異人相手に一歩も退かぬ氣概をみせ、安政六年に来航した英國軍艦一行からの遣英使節の要請をキッパリ斷る草案文書を外國奉行連名でしたためるなど、私としては武士(もののふ)としての矜恃を示してゐたことに救ひを感じる。
一方で、同じ外國奉行の柴田剛中(しばた たけなか)の如く、生麦事件の事後処理で上司の若年寄と共に英佛の公使館へ出向いて賠償金要求の回答を十五日間延長する交渉に臨むなど徹夜の多忙を極め、同行者のなかにはつひに歩きながら居眠りをする者も出た、との日記の記述は、日本の命運を最前線で守り抜いた者ならではの生々しさがある。
かうした“殿様”たちの真剣な實働ぶりを最前線の記録から讀んでいくと、『ペリー来航後の江戸幕府は人材に恵まれず弱体化する一方であった』、とする歴史は、後の“勝者”が敗者を不當に貶めたものとして注意して聞くべきだと感じた。
しかし、かうした貴重で迫真的な幕末の外交記録が、大名や幕臣宅に炭を納入してゐた出入りの一般人が、不要として貰い受けた反古紙から出てきたと云ふのが、現在との感覺の違ひが浮き彫りとなって面白い。
現在ならば外交機密文書の流出漏洩と、まず大騒ぎになるところだらう。
“Part2”は「神奈川奉行 開港都市を治める」で、開港都市として拓かれた橫濱の治安と行政を担ふため安政六年(1859年)六月四月に新設された神奈川奉行に焦点を當てた内容で、橫濱周辺の農村や宿場における土木や年貢、裁判といった行政や司法を担當した「戸部役所」と、
(※戸部役所跡、現在の神奈川縣立青少年センター一帯)
外國人相手の貿易を担當した「運上所」の両輪で構成された機關であったが、
(※運上所跡、現在の神奈川縣廰)
その業務實態についてはまとまった記録文書が失はれてゐるため、現在では詳細を知ることが困難云々、しかし初代神奈川奉行として能吏ぶりを發揮した松平康直(康英)や、
(※初代神奈川奉行 松平康直)
關税を誤魔化さうとする外國商人、下世話な情死事件の処理、“生麦事件”の緊迫した事後処理、火災現場へ火事装束をまとって騎馬で急行する奉行の姿などが周辺資料に記録されてゐるおかげで、かなり高度な外交治政機關であったことを窺ふことが出来る。
江戸幕府崩壊後の慶應四年(1868年)、橫濱の治政機關は新政府へと引き繼がれて、やがて神奈川縣廰や裁判所へと繋がっていくが、その近代橫濱の基礎を作ったのが、
身分階級よりも能力(實力)を買はれて外交最前線に立った武士たちであったことは、しっかり認識すべき歴史だと感じた。