ラジオ放送で、大藏流茂山家の「二人大名」を聴く。

二人の大名が海道を都へ上る途中、道連れにした男に自分の太刀を持たせ、家来を連れた氣になって上機嫌でゐると、腹に据ゑかねた男に逆に太刀で脅され散々な目に遭ふ──
人が恐れるのはその人よりも、その人の“持つもの”に對してである真理を、狂言ならではの風刺を効かせて樂しませる。
だいたい狂言に出て来る“大名”とは、戰國武将を経て壱萬石以上と規定される、そのやうな立派なものではなく、使用人をせいぜい一人か二人抱へてゐる程度の、田舎の小地主くらゐを云ふらしい。
それが素襖長袴に洞烏帽子と云ふ立派さうな出立ちで登場して、「大名」と名乗ってみせるところに、威張り散らす人種への反骨精神がすでに見て取れる。
今回のラジオ放送はその孫子世代の出演で、本編後の鼎譚では同じ茂山一族でも分立した“家”によって型や小謠の調子などに違ひが生じており、舞台上ではその不協和音を黙殺して押し進めてゐるらしいことがはしなくも露わにされた。
一族中でも演出に違ひが生じてゐるとは、ずいぶんいい加減な噺だと思ふ。
どふも、二世茂山千作が家訓にしたと云ふ「茂山の狂言は豆腐であれ」の意味を、この世代あたりから変質させてしまったやうに思へてならない。
もっとも、二世千作は遙か昔の人なので、私は當人の舞台も藝も傳説(はなし)でしか知らない。
が、上の家訓の意味は“誰にでも喜ばれる狂言であれ”であり、“誰にでも媚びる狂言であれ”ではなかったはずだと、現在の若い世代のシゴトぶりを傍観してゐて常に感じる。
さういふ意味では、同じ大藏流の三世山本東次郎が遺した言葉「乱れて盛んなるよりは、むしろ固く守って滅びよ」はその對極であり、全面的ではないにせよ私はその考へのはうに氣持ちを寄せる──私の現代手猿樂に山本東次郎家の“型”を一部取り入れてゐるのは、私なりの敬意のつもりだ。
話しを「二人大名」に戻して、この狂言を實際の舞台で観たのは都内のホールで、和泉流野村万蔵家の出演だった。
野村萬師に續く人材が一門中にまったく見當たらないことが氣にはなったものの、それはいかにも東京の狂言らしい樂しいひとときだった。