「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

            ブルネイ”死の逃避行”の記録

2013-05-04 07:49:05 | Weblog
知人から借りた「亡き妻に捧ぐ南方3年」(玉木政治著私家本)を今英語に翻訳中である。玉木政治氏(故人)は昭和18年、陸軍司政官として北ボルネオに赴任、19年7月から敗戦までミリ州ブルネイ県知事をされていた。この本は玉木氏が29年、この3年間の南方の体験をガリ版刷りで出版されたものだ。

ブルネイは戦後独立、今は石油生産国として世界でも指折りのお金持ち国だが、戦争中の記録は少ない。そこで思い立って英語での翻訳を始めた。玉木氏が赴任した19年から20年初めまでは、まだ連合軍の空襲もなく平和で、玉木氏も南方の生活を満喫、サルタンからお茶の招待を受けたりしている。しかし、20年6月8日、連合軍が艦砲射撃下、ムアラ海岸に上陸、第37軍司令部のあったサポンへ向けてジャングルの中を逃走する記録は悲惨だ。

北ボルネオでは、第37軍の作戦上の失敗で、いったん東海岸に集結した隷下の軍隊を再度西海岸へ移動し、多数の犠牲者を出している。このことは「北ボルネオ死の転進」(豊田穣著 集英社文庫)に詳しいが、玉木氏が体験したブルネイ―サポン220㌔の逃避行もこれに劣らず悲惨で千人を超す犠牲者が出ている。

玉木氏は当時52歳だったが、若い兵隊たちに混じって、ジャングルの中の道なき道を約1か月かかって歩いている。食糧の給与はすくなく、佐官待遇であった玉木氏は、持っていた日本刀が逆に逃避行の邪魔になったこともあって、住民との食糧交換のため手放している。住む家はなく、ほとんどジャングルの木を伐り、これで簡単な小屋をつくり夜露をしのいでいる。途中、仲間が飢えと病気でバタバタと倒れていったが、自分のことで一杯でどうにもならなかっと玉木氏は書いている。

ブルネイは今、観光地として若い人に人気があるそうだが、近くのラブハン島には、戦争末期玉砕したこの地域一帯の英霊を祀った慰霊碑が建っている。一度機会があったら、僕も参拝したい。