東カリマンタン(ボルネオ)の港町バックパパンから奥地のサマリンダにかけての街道筋は昭和20年7月、再上陸してきた連合軍との戦闘で1万人近い犠牲者が出ており、いまだに遺骨の収集も十分に行われていない。戦後、このサマリンダ街道筋に戦友や遺族によって慰霊碑が建てられたが、街道13㌔地点のカランジュランでは、毎年7月に慰霊碑の前で現地人によって供養が行われている。
慰霊碑を建てたのはBP(バックパパン)永久会だが、歳月の経過とともに関係者も少なくなり、今では会長の日本インドネシア美術協会の益子恒資さん(95)が、現地に若干の供養金を送っているが、今年も現地人の代表Salymlaysさんから、写真とともに手紙で”皆様ご高齢なのを存じております。慰霊碑の供養は現地でやります。慰霊金は必要ありません”と言ってこられたという。
本来ならば、現地の日本人が行うべきものだと思うが、。2008年厚労省の委託を受けた日本遺族会の杜撰な調査によって、この地にある「平和と友好の碑」と「日本人戦没者の碑」の二つとも、持主不明と認定され整理の対象と認定され、あやうく壊されるところだった。厚労省は今でも海外各地にある民間人建立の慰霊碑を日本遺族会に委託して整理しているが、慰霊碑には建立者のそれぞれの心がこもっている。韓国流にあえていわせて貰えば、こんな民族に未来はない。