NHKラジオ第一の「昭和歌謡ショー”昭和の家族”」(22日夜9.30)をたまたま寝床で聞いた。番組の最後の部分で司会の水前寺清子が一言、”平和ボケにならないように”といった、この言葉が僕にはとても印象的であった。
水前寺清子のヒット曲「三百六十五日のマーチ」が発表になったのは昭和43年(1969年)11月であった。この年の12月、僕は個人的には父が84歳で死去、翌44年3月、16年間務めた会社を辞め、さらに10月には、生まれ故郷の東京を離れ、地方都市に転勤した。まさに人生の転機であった。その頃、毎日のようにテレビから流れていたのが「三百六十五日のマーチ」(星野哲夫作詞 米山正夫作曲)であった。
”ワン.ツゥ ワン,ツゥ ワン.ツゥ.パンチ”で始まるこの歌は、まさに僕にとっても人生の応援歌であった。経済的には恵まれた転職、転勤であったが、やはり知らぬ異郷でのなれない仕事はきつかった。日中でも氷点下の北海道の道路で足を滑らし、スッテン転がりしたことも何度かかあった。その頃口ずさんだのが、この歌であった。”しあわせは歩いてこない、だから歩いて行くんだよ、一日一歩三日で三歩、三歩歩いて二歩下がる、人生はワン.ツゥ パンチ、べそかき、汗かき歩こうよ”
早いものだ。平成の御世も25年、四分の一世紀が過ぎた。お蔭で平和な時代が続いている。しかし、一方では、この”平和”によって耐性のない、自分勝手の日本人が多くなってきた。自分の主張が通らないといって、安易に党を出たり、入ったりする政治家は、その最たる連中だ。
水前寺清子のヒット曲「三百六十五日のマーチ」が発表になったのは昭和43年(1969年)11月であった。この年の12月、僕は個人的には父が84歳で死去、翌44年3月、16年間務めた会社を辞め、さらに10月には、生まれ故郷の東京を離れ、地方都市に転勤した。まさに人生の転機であった。その頃、毎日のようにテレビから流れていたのが「三百六十五日のマーチ」(星野哲夫作詞 米山正夫作曲)であった。
”ワン.ツゥ ワン,ツゥ ワン.ツゥ.パンチ”で始まるこの歌は、まさに僕にとっても人生の応援歌であった。経済的には恵まれた転職、転勤であったが、やはり知らぬ異郷でのなれない仕事はきつかった。日中でも氷点下の北海道の道路で足を滑らし、スッテン転がりしたことも何度かかあった。その頃口ずさんだのが、この歌であった。”しあわせは歩いてこない、だから歩いて行くんだよ、一日一歩三日で三歩、三歩歩いて二歩下がる、人生はワン.ツゥ パンチ、べそかき、汗かき歩こうよ”
早いものだ。平成の御世も25年、四分の一世紀が過ぎた。お蔭で平和な時代が続いている。しかし、一方では、この”平和”によって耐性のない、自分勝手の日本人が多くなってきた。自分の主張が通らないといって、安易に党を出たり、入ったりする政治家は、その最たる連中だ。