「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

土橋投手がフランス座にいた頃の浅草

2013-08-28 06:47:25 | Weblog
プロ野球のヤクルトや日本ハムで監督をした土橋正幸さんが亡くなった。まだ77歳で僕より5歳も若い。この土橋さんと30年ほど前、札幌すすき野の飲み屋で一晩軽く飲んだ。テレビの「プロ野球ニュース」の取材にみえて、当時北海道のテレビ局に勤務していた僕が”ご苦労さん”という意味で彼を招き、お付き合いしただけの関係だが、何故か忘れられない一人だ。

プロ野球については好きだが、専門的なことは知らない僕である。酒席の話題はもっぱら共通の浅草の事になった。土橋さんは昭和29年(1954年)当時の東映フライヤーズにテスト入団するまでは浅草のストリップ劇場フランス座の軟式野球の投手をしていた。一方、僕も新聞社の駆け出し記者で、上野、浅草警察などが担当のサツまわりをしていた。NHKの「事件記者」より前の時代である。

僕は土橋さんがフランス座で野球をしていた頃は知らないが、仕事をかねてフランス座に出入りし当時司会者だった関敬六さんから浅草の話を聞いた。カジノ座、フランス座など浅草六区のストリップが全盛でどこも満員であった。そのころ、浅草でのサツまわり記者のたまり場は、国際通りから少し入った「ガラス湯」横の「がまぐち」という飲み屋であった。戦前の浅草オペラからの俳優高屋朗さんが経営していた。高屋さんは映画「二等兵物語」シリーズに脇役として出演していたコメデイアンで、口ががま口のように大きいので店の名前にしていた。

土橋さんも「がまぐち」に出入りしていた。空襲で焼けた観音様がまだ落慶されず、六区のひょうたん池もあり、そのまわりで観光客が安い焼酎のブドウ割や梅酒割でモツ鍋を食べていた。ストリップ劇場の軟式投手がプロ野球のスター投手にもなれた、まだ、ドリームがあった時代であった。