1960年代の後半から70年代初めにかけてUHFの民間テレビ局が続々と誕生した。まだコンバーターをつけないと受信できない時代であった。もう40数年も前のことだ。開局に携わった僕らはまず、街の電気屋さんを回ってコンバーターの普及販売が最初の仕事であった。当時はベトナム戦争の最中で、僕は新聞社で国際問題を担当していたが、ある日突然、同系の民放行きを命じられ、半年間の実務研修を受けて、郡山に誕生したテレビ局に営業担当として赴任した。
郡山の局には約2年間勤務、経営が軌道に乗り出した頃、親局の番組ネット.チェンジの関係で、今度は札幌の開局を命じられた。まさにサラリーマンとは将棋のコマみたいなものである。札幌の局にはあしかけ10年勤務したが、一身での都合で50歳の時、みずから仕事をやめた。もう、それからでも30年の歳月がたつが、最近、この勤務した二つの局から社報が届き、それを見ると、開局当時の新人社員で役員まで昇進した連中も定年で退職した。
個人的なことで恐縮だが、僕は50歳で仕事を辞めているので定年を経験したことがない。一つの会社で一つの仕事をやり遂げたたという喜びを味合ったこともないが、逆によく言われるサラリーマンの悲哀も知らない。逆に結果的だが4回も中途半端な額の退職金を貰っている。80歳を越えた今、半生を振り返ってみて、50歳で退職したのがよかったのか、それとも定年まで勤務するのがよかったのか考えることがある。一概にはいえないが、こうして元気で勝手放題、ブログ三昧でいられるのだから、早くサラリマンにグッドバイしたほうが正解だったかもしれない。超高齢化時代だけに人生の後半の生き方は難しい。
郡山の局には約2年間勤務、経営が軌道に乗り出した頃、親局の番組ネット.チェンジの関係で、今度は札幌の開局を命じられた。まさにサラリーマンとは将棋のコマみたいなものである。札幌の局にはあしかけ10年勤務したが、一身での都合で50歳の時、みずから仕事をやめた。もう、それからでも30年の歳月がたつが、最近、この勤務した二つの局から社報が届き、それを見ると、開局当時の新人社員で役員まで昇進した連中も定年で退職した。
個人的なことで恐縮だが、僕は50歳で仕事を辞めているので定年を経験したことがない。一つの会社で一つの仕事をやり遂げたたという喜びを味合ったこともないが、逆によく言われるサラリーマンの悲哀も知らない。逆に結果的だが4回も中途半端な額の退職金を貰っている。80歳を越えた今、半生を振り返ってみて、50歳で退職したのがよかったのか、それとも定年まで勤務するのがよかったのか考えることがある。一概にはいえないが、こうして元気で勝手放題、ブログ三昧でいられるのだから、早くサラリマンにグッドバイしたほうが正解だったかもしれない。超高齢化時代だけに人生の後半の生き方は難しい。