古いアルバムを整理していたら、撮った時代が特定できない亡父の写真があった。何時かなと、推定してみたら亡父が国民服を着ていた。国民服の着用は昭和15年(1940年)の勅令で着用が決まった。戦時下、繊維不足と国民の戦意高揚を狙ったもので、強制的ではなかったが、男子国民はできるだけこれを着用するよう推奨された。甲と乙と二種類があって、甲の襟は背広型でネクタイも付けられ、帽子は烏帽子型、一方、乙は軍服と同じ襟で、帽子は戦闘帽であった。当時子供だった僕の観察では、大人には甲型に人気があったようだった。
敗戦から初めての日曜日の20年8月21日の亡父の日記には”すでに防空頭巾と巻きゲートルは廃止され、気を付けてみると街頭人の服装も国防色(カーキ色)も次第に減りつつある”とある。敗戦から僅か4日しかたっていないが、この日当時の東久爾首相は、灯火管制を解き街を明るくするよう天皇の言葉を伝えた。
国民服は22年3月、進駐軍命令によって全面禁止されたが、当時は食糧だけでなく衣類も極端に不足していた。古い擦り切れた背広を裏返しにして着たり、航空兵の戦闘服を白いマフラーで飾り粋に着こなした若者もいた。国民は国防色にグッドバイしたい一方で、衣類不足からそれができない状態であった。23年、僕が大学の予科に入った時でも級友のなかには将校服の肩章を取った服を着ていた。教会のバザーで当たった派手な生地でズボンを作り、得意気にはいていたのもその頃であった。
僕らの世代の中には、いまだに国防色アネルギーな者が多い。靖国神社に旧軍服を着て参拝する若者がいるが、戦争のみじめさを知らない人たちであろう。
敗戦から初めての日曜日の20年8月21日の亡父の日記には”すでに防空頭巾と巻きゲートルは廃止され、気を付けてみると街頭人の服装も国防色(カーキ色)も次第に減りつつある”とある。敗戦から僅か4日しかたっていないが、この日当時の東久爾首相は、灯火管制を解き街を明るくするよう天皇の言葉を伝えた。
国民服は22年3月、進駐軍命令によって全面禁止されたが、当時は食糧だけでなく衣類も極端に不足していた。古い擦り切れた背広を裏返しにして着たり、航空兵の戦闘服を白いマフラーで飾り粋に着こなした若者もいた。国民は国防色にグッドバイしたい一方で、衣類不足からそれができない状態であった。23年、僕が大学の予科に入った時でも級友のなかには将校服の肩章を取った服を着ていた。教会のバザーで当たった派手な生地でズボンを作り、得意気にはいていたのもその頃であった。
僕らの世代の中には、いまだに国防色アネルギーな者が多い。靖国神社に旧軍服を着て参拝する若者がいるが、戦争のみじめさを知らない人たちであろう。