「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

新聞が悪いのか、それとも年寄りのボケが悪いのか

2014-07-14 09:47:33 | Weblog
母校の野球応援についてブログで書いたが、試合当日と思っていた朝、友人からメールが入り、試合は明日だという。友人は高校野球を主催する朝日新聞の購読者だが、今朝の今朝まで今日だと思っていた。僕も別の新聞だが、東京東西両大会のスケジュール表には14日とはっきり書いてあった。多分何かの都合で延期になったのだろうか、変更の記事が新聞に載らないのは不親切である。PCがあるから、変更を紙面で伝えなくてもよいと思ったのであろうか。年寄りが二人ともボケることはありえない。

”蒼海転じて球場”母校の野球応援

2014-07-14 06:02:33 | Weblog
66年前卒業した母校(旧制中学)の野球の応援に旧友二人と出かける。自分でいうのもおかしいが、元気なお爺さんたちだ。球場は東京湾の埋め立て地にある太田スタジアム。自宅からバスで大森まででかけ、それから三人、割り勘でタクシーに乗り、800円支払ってネット裏で観戦する。

旧友の一人は戦後復活第一回(昭和21年)の大会でエースだった男だ。残念ながら一回戦で、この年都大会で優勝、甲子園に行った、東京高師付属中学(筑波大付属)に当たり大差で敗退した。今でも覚えているが球場は、高師付属の砂利の校庭であった。当方はまだユニフォームもなく、一塁手はファースト.グローブもなかった。もちろん応援席などなかった。

大田スタジアムのある埋立地は、戦後「平和島」と呼ばれた人工島のさらに海上延長線にある。「平和島」は昭和14年から埋め立てが始まり、戦争中はここに連合軍の捕虜収容所があり、戦後は代わって、東條首相らの”戦争犯罪人”が処刑までの一時期収容されていたバラックもあった。当時は大森海岸から木の仮橋一本で結ばれていた。

昭和30年代になって「平和島」の開発は進み、ここに温泉リクリエーション施設ができ、さらに競艇場も出来た。連合軍の捕虜収容所があったのは、競艇所入口付近で、平和観音像が建っている。昭和50年代、大森海岸と「平和島」との間の運河も埋められ、完全に陸地となった。「平和島」ができる以前、大森海岸は、東京屈指の海水浴場であり、料亭が立ち並ぶ歓楽街でもあった。世の中の急変することを”蒼海転じて桑畑”というが、桑畑どころではない。立派な球場ができ、周囲には倉庫群が立ち並んでいる変わりようだ。