「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

機銃掃射を浴びたあの頃

2014-07-24 05:51:22 | Weblog
敗戦記念日の8月15日の1か月前の今頃になると、毎年機銃掃射を浴び九死に一生のあの体験を想い出す。昭和20年7月、千葉県江戸川の運河の拡幅工事に勤労動員されていた時だ。雲の間から突然、米軍のグラマン艦載機が現れ僕らに向かって機銃を浴びせてきた。幸い全員無事だったが、今でも操縦士の顔が想い浮かぶ。それほど至近距離からの掃射であった。

記録を調べると、東京への空襲は5月25日の山の手空襲を最後に大規模なB-29による空襲は終わり、そのあと地方の中小都市への空襲に移っている。同時に洋上からの艦砲射撃や小型艦載機の大編隊が来襲、無差別な機銃掃射を市民に浴びせるようになった。10年ほど前、八王子市に4年間居住、郷土史を調べたことがあるが、同市は8月3日の大空襲で旧市内の8割が焼失、450人近くが犠牲になったが、その直後の5日、今度は中央線の湯の花トンネルに停車中の列車に無差別機銃掃射が浴びせられ50人が亡くなっている。八王子には東京から学童疎開で来ていた品川区の5年生が、やはり機銃掃射で死亡、地元の人がお寺に「ランドセル地蔵」を作り命日には、お地蔵さんを開帳している。

最大の艦載機による空襲の悲劇は、7月25日の大分県津久見市保戸島小学校で起きたグラマンによる空爆と機銃掃射であった。米国側は同島にあったレーダー基地に対する誤爆だといっているが、この空爆と機銃掃射で学童125人が死亡、教師2人も犠牲になっている。学童に機銃掃射を浴びせていて、誤爆とは白々しい。イスラエルのパレスチナ自治区ガザへの地上攻撃が激しさを増している。テレビの画面を見ると、機銃掃射を体験した僕らは、理由はなんであれ、即時戦闘を止めてくれと祈るだけである。