「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

「花子とアン」と昭和20年4月15日空襲

2014-07-22 05:14:14 | Weblog
昨日の朝、NHKの連続ドラマ「花子とアン」の総集編を見た。番組開始以来20%台の高視聴率を維持しているそうだ。わが家でも時間になると、老妻は家事の手を休めてテレビの前に座り込む。僕も時々視聴するが、改めて昨日第一回の空襲のシーンで、主人公の村岡花子さんが、蔵書をいっぱい手にして、外へ避難する場面から、昭和20年4月15日夜の城南空襲を想い出した。

村岡さん宅は幸い、空襲の難から免れたが、この空襲で家のあった大森界隈は灰塵に帰した。先日、村岡さんの義理の娘さんと小学校時代同級だった方の書いた空襲体験記を読む機会があったが、避難先の池上本門寺まで猛火に包まれ、逃げ場を失っていた。当時、わが家は大森から10㌔ほど離れていた地に住んでいたが、亡父の日記には”敵200機京浜西南地区を遅い、各所火の海、初めて空襲の脅威を肌で感じる”と記している。この空襲で、わが家から私鉄で一つ駅先の自由が丘駅前も焼失、勤労動員先の蒲田区六郷(当時)の工場も全壊した。

東京では3月10日の下町大空襲以来、ほとんど毎日のように空襲警報が発令され、都内のどこかかで被害が出ているが、当時は自分が住んでいる周囲しか詳しいことは判らなかった。先日母校の野球の応援で会った友人の一人も世田谷区で空襲にあっている。僕は自由が丘に近い場所なので、4月15日の空襲だとばかり思っていたが、それより先の空襲で、家の周り数軒だけ被害にあい、近くのお寺、九品仏へ母親と一緒に避難したという。当時自由が丘に住んでいた別の友人にこのことを聞いたが、わからないという返事だった。

来年は敗戦70年の節目の年なので、自分の住んでいた目黒区の空襲記録を調べているが、下町空襲前の3月5日、わが家近くの稲荷神社が焼失した記録が残っていない。警視庁カメラマンだった石川光陽さんの写真には、近くで消火する警防団の姿があるから空襲は間違いなくあった。70年の歳月はやはり重い。来年は空襲だけではなく、戦争体験者の証言を残す最後のチャンスである。