東京九段の昭和館で7月26日から8月31日まで3階の特別企画室で「空襲とくらし~そのとき人々は~」が開催されている。(入場料無料 月曜日閉館)。昨日僕は老妻と一緒に内覧会に招待され見学してきた。
数年前だが、僕は亡父がわが家に保存していた戦時中の”ガラクタ”を昭和館に寄贈した。そのまま個人が持っていても散逸してまうものばかりだ。その一つが今回展示されている「訓練用用五噸エレクトン焼夷弾」である。焼夷弾といっても、ただの紙切れにすぎない。亡父の日記によると、空襲が日常化する前の昭和18年4月13日、日比谷公園で手にいれたものである。空中から散布されたものか、どうかはっきりしないが、防空訓練の一環として撒かれたものらしい。
東京への初空襲は17年4月18日であった。太平洋上の空母から発進したB-25爆撃機16機が都内を爆撃した。当時小学校6年生であった僕も、かすかな記憶の中で空襲を覚えている。この空襲の後、東京では防空訓練が強化された。学校でも訓練の日には、教室内に机や椅子をジャングル.ジムのように積み上げたりした。多分、爆風除けのつもりだったのであろう。街中では隣組の主婦たちによる消火バケツリレー訓練が毎月行われた。
こういった訓練は、19年11月から開始されたB-29による本格的な空襲で、全く幼稚で役に立たないことが証明された。幸いわが家は5月23日の山の手空襲で200㍍ほど離れた家に焼夷弾が落下、その破片を火叩きで消した程度ですんだ。しかし、”空襲下のくらし”は体験している世代である。展示会を見学して、改めて連日のように警戒警報、空襲警報が発令され、防空壕に逃げ込んだ当時を想い起こし、今の平和な時代に感謝した。

数年前だが、僕は亡父がわが家に保存していた戦時中の”ガラクタ”を昭和館に寄贈した。そのまま個人が持っていても散逸してまうものばかりだ。その一つが今回展示されている「訓練用用五噸エレクトン焼夷弾」である。焼夷弾といっても、ただの紙切れにすぎない。亡父の日記によると、空襲が日常化する前の昭和18年4月13日、日比谷公園で手にいれたものである。空中から散布されたものか、どうかはっきりしないが、防空訓練の一環として撒かれたものらしい。
東京への初空襲は17年4月18日であった。太平洋上の空母から発進したB-25爆撃機16機が都内を爆撃した。当時小学校6年生であった僕も、かすかな記憶の中で空襲を覚えている。この空襲の後、東京では防空訓練が強化された。学校でも訓練の日には、教室内に机や椅子をジャングル.ジムのように積み上げたりした。多分、爆風除けのつもりだったのであろう。街中では隣組の主婦たちによる消火バケツリレー訓練が毎月行われた。
こういった訓練は、19年11月から開始されたB-29による本格的な空襲で、全く幼稚で役に立たないことが証明された。幸いわが家は5月23日の山の手空襲で200㍍ほど離れた家に焼夷弾が落下、その破片を火叩きで消した程度ですんだ。しかし、”空襲下のくらし”は体験している世代である。展示会を見学して、改めて連日のように警戒警報、空襲警報が発令され、防空壕に逃げ込んだ当時を想い起こし、今の平和な時代に感謝した。