3月7日記述の小ブログ「97歳大先輩に聞く戦時下のセレベス」の中で、残念ながら国立インドネシア図書館から戦時下パダン(西スマトラ)で発刊されていた日本語「スマトラ新聞」が目録だけで紛失したと書きましたが、調査に出かけた知人宛てに、実物が残存していたた旨訂正のメールが入りました。研究者にとっては朗報です。
先日、小ブログで、今、社会を騒がせている匿名ブログ「保育園落ちた日本死ぬ」批判を書いたところ、かって保育園の園長をしていた知人の女性(82)から”あきれる一言”。さらにそれ以上に憤りを感じるのは、これに便乗して国会周辺でデモをしている連中だ”とメールでコメントを頂いた。僕も先のブログで、この匿名ブログは政治的な意図の臭いがすると旨示唆したが、案の定、共産党の女性参院議員が”保育園落ちたの私だ”のプラカードを掲げデモに参加していた。
知人の女性は昭和28年から平成5年、定年で園長を辞めるまで40年間、保母さんをされ、自身、二人のお子さんを育てておられる。女性はメールのコメントの中で、”私たちの時代は、今のように恵まれていなかった。長男(昭和35年生まれ)の時は7回も保育所を変えた。自宅で他人のお子さんも一緒に預かる”保育ママ”(家庭福祉士)の体験もされたと書かれている。
昭和35年から45年の時代は、高度成長から都会では一挙に”共稼ぎ”が増え、極端な保育所不足になり”ポストの数ほど保育園を”運動が展開された。知人の女性は保母さんとして、保育予算の増加運動にも参画、仲間は童謡を歌いながら保育所の増設を訴える街頭デモにも参加した。女性の書かれた「私が見てきた保育の歴史}(けやき出版1998年)には、過去の保育所の苦闘の歴史が記されているが、戦後すぐの時代には女性の”二コヨン”(日雇い労働者)支援のために職業安定所近くで野外託児所もあったという。
デモに参加した共産党の女性議員は、夫も東京の区議をしており、二人の収入から認可保育所の入園基準には当てはまらない。こういったことをよく調べずに匿名で勝手放題の事を書き、これを国会で問題にするとは、無責任きわまりない。
知人の女性は昭和28年から平成5年、定年で園長を辞めるまで40年間、保母さんをされ、自身、二人のお子さんを育てておられる。女性はメールのコメントの中で、”私たちの時代は、今のように恵まれていなかった。長男(昭和35年生まれ)の時は7回も保育所を変えた。自宅で他人のお子さんも一緒に預かる”保育ママ”(家庭福祉士)の体験もされたと書かれている。
昭和35年から45年の時代は、高度成長から都会では一挙に”共稼ぎ”が増え、極端な保育所不足になり”ポストの数ほど保育園を”運動が展開された。知人の女性は保母さんとして、保育予算の増加運動にも参画、仲間は童謡を歌いながら保育所の増設を訴える街頭デモにも参加した。女性の書かれた「私が見てきた保育の歴史}(けやき出版1998年)には、過去の保育所の苦闘の歴史が記されているが、戦後すぐの時代には女性の”二コヨン”(日雇い労働者)支援のために職業安定所近くで野外託児所もあったという。
デモに参加した共産党の女性議員は、夫も東京の区議をしており、二人の収入から認可保育所の入園基準には当てはまらない。こういったことをよく調べずに匿名で勝手放題の事を書き、これを国会で問題にするとは、無責任きわまりない。