「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

戦前、東京区部にも馬がいた時代

2016-03-16 06:43:58 | 2012・1・1
昭和20年3月10日の東京大空襲の後、わが家は強制疎開の対象になり、1週間以内に退去せよと国から命令された。大空襲の後を受け、鉄道の駅や軍需工場の周囲100メートルは撤去の対象だった。当時の亡父の日記によれば、わが家の場合、16日に正式通達があり、21日、近所の馬車屋さんに頼んで荷馬車二台で、ばたばたと7キロほど離れた今住んでいる所に引っ越してきた。戦時下、軍用以外トラックなどなかった時代である。

僅か70余年前である。東京の区部内にもまだ馬が生活の具として使われいたのだ。僕の住んでいた省線(JR)五反田駅近くの芸者街の入口には、蹄鉄屋さんがまだあった。馬一頭が入れば一杯の狭い小屋だったが、いつも蹄鉄の異様な臭いがしていた。それだけ、まだ馬の需要があったのだろう。小学生だった僕らは、勤労奉仕に路上に落とされた馬糞を拾い集めて歩いた。

昭和20年1月から僕らは六郷(大田区)の軍需工場へ動員され、海軍の秘密兵器、人間魚雷「回天」の部品を製造していたが、完成した製品は、工場から馬車や時には牛車で蒲田駅まで運ばれていた。工場は4月15日の京浜大空襲で全焼したが、当時宿直だった人の話では、空襲の夜、近くの京浜国道を、馬が悲鳴のいななきをあげて走り回っていたそうだ。

馬齢を重ねると、その一年何があったのか想いだせない年も出てくるが、敗戦の昭和20年の年は僕らにとっては忘れられない一年である。でも考えてみると、大都会の東京でもまだ馬が生活手段であったのだ。これでは核爆弾を持つ国との戦争には勝てるわけはなかった。