「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

73年前暗黒の12日間だった東京

2018-06-07 04:57:57 | 2012・1・1
73年前、昭和20年6月6日(水)の亡父の日記の一節「12日ぶりに電灯がつき気も心も明るくなる」。忘れてしまっていたが、東京は5月24,25日の連続山の手大空襲(これが事実上最後の大空襲だったが)でインフラ設備が大被害を受け、12日日間も暗黒の生活をしていたのだ。

当時、亡父は61歳、55歳の定年を終え、都心の虎の門にある大東亜省関係の協会へ嘱託として勤務していたが、自宅に焼夷弾が落ちた翌日の25日から通勤している。東横線がストップしたため、恵比寿駅まで歩き、省線で新橋まで行き、また歩いている。26日は渋谷まで歩き、初めて駅界隈一帯が焼野原になっているのを知っている。新聞が在京5社で「共同新聞」を発行したのは27日になってからだ。

この年、東京は異常季節だったようで、父は6月1日の日記に”まだネルの襦袢がはなせない”と書いており、電灯のない暗闇の中で空腹を抱えながら一家は午後7時に就寝していた。僕は学校近くの五反田駅前の焼け跡整理に動員されていたが、6月8日、千葉県東葛飾郡梅郷村(現在の流山市)の利根運河拡幅工事に家を離れて動員された。

動員の集合場所は上野の山の西郷さんの銅像前だった、今でも記憶に新しいが、、上野の駅の地下道は空襲で焼けだされた孤児であふれていた。僕らは家を離れ、農家に分宿しながら軍隊の内務班さながらの生活をした。その生活は昨年6月8日の小ブログ「陸軍船舶部隊築城班」に書いた。