「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

              岡田副総理の”三分の理”

2012-03-21 07:15:20 | Weblog
ふだん政治家のHPなどあまり見ないのだが、NHKのラジオニュースで珍しく民主党の岡田副総理のHPを紹介していた。どんな内容なのかのぞいてみた。結論から言うと、岡田副総理のの言い分は、言葉は悪いが、「盗人猛々しい」あるいは「盗人にも三分の理」みたいに僕には思えた。参考までに「慣用句ことわざ辞典」(三省堂)によると、「盗人猛々しい」の意味は”悪いことをしながら平然としていて、とがめられると逆に相手にとってかかる”とあり「盗人にも三分の理」は”悪いことをしても言い訳だけは何とでも立つ。どんなことでも理屈は何とかつけられる”という意味だ。

岡田副総理は3月19日付けで「大連立報道―極めて異例―不正な報道―報道側に説明責任」というブログを書いている。NHKは多分これを受けてラジオで弁明したのかもしれないが、副総理はこの中で次のように書いている。「私自身今の政治の現状を見て、これはやはりお互いに批判し合っている、自民党と民主党が批判しあっていることでは駄目だ。国民は既成政党に対して物事が前に進まないという強い怒りあるいは不満を持っていると。これに対して正面から応えて行くにはお互いに妥協してきちんと物事を決め政治をしなければならないことを私はかねてから申し上げてきている。それが私のメッセージだ」

岡田副総理の論理は僕に言わせれば「盗人猛々しい」「盗人にも三分の理」だ。物事が進まない根因は民主党のマニフェスト破りにある。自民党など野党が批判しているのは、出来もしないマニフェストで国民を騙し続けているのが根源なのだ。それに一つのことを決めるのに、いつも党内で対立もめている。これが物事が前に進まない一因なのだ。国民は既成政党すべてにに強い怒りや不満など持っていない。あるとすればそれは民主党にである。

            66年前と31年前の春分の頃

2012-03-20 07:40:36 | Weblog
”寒さ暑さも彼岸まで”というが、今年はどうも違う。彼岸の中日、春分でも寒い。一体春はどこへ行ってしまったのか。例年だとこの時季になると、沈丁花の花の匂いが漂ってくるのだが、今年はまだ蕾が固い。気象予報だと、この寒さはまだ続きそうだという。まったく”赤いジョジョ”はいておんもに出たい、みいちゃんの心境である。

31年前の昭和56年3月19日、僕は足掛け10年勤務した北海道の会社を辞め、生まれ故郷の東京へ戻った。札幌はまだ雪で囲まれていたが、東京はすでに春めいていて、新居の周りの沈丁花の香りが強烈な印象として残っている。北国の生活に慣れていない者にとって、11月から4月までの長い冬はとても耐え難かった。当時僕は50歳だったが、この転居を機会に僕の第二の人生が始まった。

もう一つ忘れられないのは昭和20年の春の彼岸だ。当時僕は東京の五反田に住んでいたが、3月10日の大空襲の後、家のまわりに軍需工場があったため、急きょ強制疎開を命じられた。命令があってから1週間以内に家を空けなければならず、わが家はバタバタと引越し準備をした。亡父の日記によると、五反田の家から、現在僕が住んでいる住居まで、引っ越し荷物を二台の荷馬車に積んで5㌔の道を三往復した。亡父の春分の日の日記には”終日、荷物の整理と塀の取り壊し。付近も我らと同じ忙しさだ。戦時下の苛烈な現状を思えば仕方がない”とある。ただ救いなのは、日記の後尾に”今日は珍しく暖かし、やはり彼岸の中日である”と書いてあった。

ここまで書いて僕は昨年の小ブログを見直してみたら連日、東日本大震災関係のことばかり、彼岸についても、いつ桜が咲いたかについても一切触れてうない。やはり心理的にそんな余裕がなかったのだろう。

           大丈夫なのか民主党政権の防衛安全

2012-03-19 06:52:49 | Weblog
拉致問題の解決を巡ってモンゴルで民主党の中井衆院予算委員長の代理と称する私立大学の教授が北朝鮮の「朝日交渉」大使と接触していたという。北朝鮮の大使は”会談ではなく悪化している両国問題を今後どうするか個人的に話し合った”と言っているが、個人的とはいえ、相手は一国の代表である。教授はどんな資格で、またどんな権限をもってモンゴルまで出かけたのか。旅行費用は誰が支払ったの気になるところだ。

中国の国家海洋局の巡視船など6隻が、日中中間線の隣接するガス田(白樺)で合同演習を実施して”わが国の主権と管轄権を示すことができた”と主張している。中国は今年に入ってから何回もわが国の領海である尖閣諸島に出没している。しかし、これに対して民主党政権は公式に抗議したのかどうか、はっきりした報道もない。

北朝鮮が4月中旬に人工衛星を偽ったロケット実験を予定している。もしそのロケットがわが国に飛来したらイーデス艦や地対空ミサイルで迎撃すると防衛大臣はいっているが、こころもとない発言の多いこの人にまかせて大丈夫なのか。

こんな中で消費増税の国会審議が前に進まず頓挫している。”岡田副総理は「進まぬ政治」に危機感を感じて自民党との大連立を模索している”(読売新聞3月18日首都圏版政治面)らしい。しかし、自民党は大連立より、解散総選挙を主張している。それより民主党内の足並みさえ整っていない。岡田副総理は「進まぬ政治」に危機感を感じているというが、大半の国民は、国の外交が一本化されていないのではないかと懸念し、このままで果たして、国の安全防衛は大丈夫なのか危機感を抱きはじめてきた。

            慶長遣欧使節団の史実に素人の驚き

2012-03-18 07:29:48 | Weblog
昨日スペイン協会の文化の集い「ドンキホーテ.クラブ」で、僕は素人のくせに臆面もなく慶長遣欧使節団について話をさせて貰う機会をえた。先日慶長使節の資料が日本スペイン両国によってユネスコの記憶遺産に推薦されるということを知って、僕はネット情報中心ながら、にわか勉強してみた。話はそのまとめである。

僕ら昭和1ケタ世代は、戦前西暦でなく皇紀で歴史を教わった世代である。例えば仏教伝来は”仏教はオイチにオイチ(皇紀1212年)とやってきた”と覚えさせられた。その弊害で今でも西暦表記の海外の出来事との対比が得意ではない。慶長遣欧使節についても昔学校で教わったような記憶はあるのだが、西暦に直すと何時ごろなのかはっきりしない。

僕のにわか勉強はこんなことから始まったが、驚いたことが沢山あった。その第一は支倉常長(副使)の使節団が、東周りではなく西まわり、つまり太平洋を横断して当時のヌエバ.イスパニア(現在のメキシコ)経由でヨーロッパに渡ったこと、第二は天正のキリシタン大名少年使節団とは違って、派遣した伊達正宗には、明らかにヌエバ.イスパニア(濃昆須版)との通商を望んでいた意図があったことだ。

年表的にいうと、慶長使節団は1613年(慶長18年)に石巻で建造された「バゥチスタ」号に乗って月の浦港を出発、約7年、メキシコやスペイン、ローマなどを視察、1620年(元和6年)帰国しているが、これに先立つ16世紀後半から17世紀初頭は歴史的には大変揺れ動いた時代であった。室町幕府が終わり(1573年)江戸幕府が成立(1603年)海外からは南蛮人が渡来してキリスト教の布教を通じて西欧の文明が入ってきた。

僕ら天皇家中心のいわゆる皇国史観で、日本史を学んだ世代にとって慶長遣欧使節の史実は知らないことが多く、まさに驚きの連続だった。

        島田市の瓦礫受け入れはファインプレイ

2012-03-17 07:01:06 | Weblog
静岡県島田市が東京都についで地方自治体では二番目に被災地の瓦礫の受け入れを決定し、早ければ来週にも岩手県大槌町と山田町から出た瓦礫を年間五千トン程度処理する。この決定に先立ち島田市では、2月から山田町から瓦礫の一部を取り寄せ試験的に焼却して放射能値をチェックするなど安全を確認、その上で市議会の承認を得ている。被災地の瓦礫処理は遅々として進まない中、島田市のこの手際よい決定に拍手を送りたい。これが呼び水となって瓦礫処理が一日も早く解決することを望んでいる。

なぜ全国数ある自治体の中で、島田市がいち早く瓦礫受け入れを決めたのか?島田市といえば、戦前の中等野球(高校野球)を知っているオールドファンにとっては懐かしい。県立島田商業学校が昭和14年夏と15年春連続してベスト4に入り、15年夏の甲子園では準優勝している。戦後すぐの頃、プロ野球で活躍した一言投手や長持外野手もこの島商の出身だ。こんなことは知っていても、島田市へ訪れたこともないし、知識もない。

そこで、疑問に答えるためネットで調べてみたら、市長の桜井勝郎氏は島田商業の卒業生で、市長に当選するまでまでの家業は産業廃棄物処理業者とあった。そして今でも親族がこれをやっているそうだ。言ってみれば,ゴミ処理についてはプロで、そのノウハウを持っている方なのだ。この経歴をめぐってネット上では、例によって口汚い批判もでているが、野田総理の言葉を借りれば、大局を見る目がない。島田市の憲章には”秩序を守り助け合い住みよい街をつくろう"とある。僕は桜井市長の決定は”ファインプレイ”とみて拍手を送りたい。

         忘れられない勝ち戦であった昭和17年

2012-03-16 07:04:36 | Weblog
馬齢を重ねると、その年1年間、何があったのか思い出せない年も出てくる。が、70年前の昭和17年(1942年)は僕にとって忘れられない。恐らく僕だけではなかろう。大東亜戦争の緒戦の勝利で、日本中が湧き立っていた。例えば、亡父の3月9日の日記には”蘭印(インドネシア)の蘭英豪連合軍、9万3千人全面無条件降伏”と赤字で記されており”何と愉快ではないか。あとは豪州、ニュージランド、それから米英”とコメントしている。

当時小学5年から6年だった僕は家の壁に貼ってあった大きな世界地図に日本軍が次々に占領してゆく町の名前を赤く塗りつぶしていった。僕だけではなく、その頃の小国民は同じようにしたものだ。1月2日のマニラ占領に始まってセレベス、ラバウル上陸、2月にはパレンバンへの落下傘部隊降下、シンガポール占領、3月1日にはジャワ上陸、わずか10日足らずで敵軍が降参、4月にはコレヒドール半島が落ちてフィリピンの米軍が全面降伏ー連戦連勝であった。この勝ち戦ムードが一変したのが6月5日のミッドウェー海戦だったことを国民は戦後になって知った。

戦争中は戦況について大本営から発表があり、NHKのラジオが伝えた。緒戦の頃は勇ましい軍艦マーチに乗って報道部長の元気な声が流れてきたことをよく覚えている。亡父はいちいち、これを日記の端に記しているが、なぜかミッドウェー海戦の記述がなく、代って”潜航艇マダガスカル、シドニーを襲撃の公表あり”と記してある。

ミッドウェー海戦で山本五十六海軍大将が率いる連合艦隊は、主力の空母「赤城」など4空母と艦載機253機を一挙に失った。しかし、この敗戦については、亡父の日記のは記されていない。調べていないが、多分大本営からの発表はなかったかあるいは、虚偽の発表があったのだろう。それにしても緒戦時には、インド洋上の艦載機がコロンボ(スリランカ)を空襲したり、遠くアフリカ、豪州まで潜航艇が遠征したり、今考えると、いたずらに戦争の版図を広げていたものだ。

          ”サクラ”散っても落胆するな

2012-03-15 07:46:12 | Weblog
”サクラサク””サクラチル”は、その昔大学の合否電報の定番だった。昭和31年の早稲田大学の合格発表がその嚆矢だ、とネット情報にあった。僕の入試発表は昭和23年だったが、当時を思い出すと、まだまだ一般には電話は普及しておらず、東京の大学に受験した地方の学生にとって親元に早く合否を知らせるには電報が唯一の手段であった。今はケータイ時代である。電報なんか必要ないし、恐らく”サクラサク”みたいな、持って回った表現もしなくなったのでは。

昨日、68年来の竹馬の友と久しぶりに昼食を共にしたが、一浪していた孫娘が国立の最大難関校には失敗したが、私立の偏差値の超高い学部に合格した、とちょっぴり残念そうだが嬉しそうだった。僕みたいな古い頭の持ち主からすれば、女性はいつまでも浪人してはいけない。二人は軽く飲むほどに60数年前の自分たちの受験時代のことを話し合った。

僕らの受験時代には東京でも予備校はたしか1校か2校しかなかった。それもあまり有名ではなかった。地方からの学生で東京の国立校の受験に失敗したものは、予備校ではなくて、僕が入学した私立校に席を置きながら受験勉強をしていた者が多かった。

そんな話から、僕らは長い人生にとって若い時代の浪人生活が、その後の人生にとってプラスかマイナスかという話になった。友人は受験時代に病院に長期入院、結果的には一浪している。結論から言うと、浪人生活はプラスになっている、ということだった。社会に出てからの”出世”競争だけでみると、僕の会社では、現役よりも浪人経験者のほうが出世している。”サクラ”散っても、これからの長い人生。落胆することはない。

         マレーシア国歌の起源はシャンソンか?

2012-03-14 07:27:11 | Weblog
知人の音楽研究家からマレーシアの国歌「Negaraku」(わが祖国)の元歌だとされている「Terang Bulan」(月の灯り)はもともとフランスのシャンソン「La Rosalie」ではないかと、とメールで問い合わせがあった。「Terang Bulan」は、大東亜戦争で南方へ従軍した日本兵の間で愛好された歌で、昭和18年、国内でも灰田勝彦が歌ってレコード化されている。僕も小学生の時、学校のブラスバンドが日比谷の野外音楽堂で演奏したのを覚えている。戦後もたしか雪村いづみが歌ったことがある。

「terang Bulan」の歌詞は「月影明るい川べりに 浮かんだ鰐は死んだふり 乗るな男の口車 死を恐れずと誓うけど」-といったいかにも南方らしい恋歌だが、戦後1957年、マレーシアが英国から独立した際、当時のアブドル.ラーマン首相が、400ある候補の中から、このメロディを国歌に選び、次のような歌詞をつけ題名も「Negaraku」とした。
             「Negaraku」(わが祖国)
Tanah tumpahnya darahku Rayat hidup bersatu dan maju Rahmat bahagia Tuhan kurniakan
Raja kita selamat bertakhat Rahmat bahagia Tuhan kurniakan Raja kita selamat bertakhta
(わが生まれた祖国 国民は統一と発展の中に生きる 神が授けてくれた恵みと幸せ
われらが国王の在位が平安でありますよう 神が授けてくれた恵みと幸せ われらが国王の在位が平安でありますよう)

数年前、僕は知人から昭和12年に蘭印(インドネシア)のバタビア(ジャカルタ)で製作されたSPレコードを入手した。Miss Roekjaという女性歌手が歌っているもので、同名の映画の主題歌であった。メロデイはかってポルトガルの植民地時代影響を受けたというクロンチョンで、昔僕が戦争中聞いたものと同じだった。知人の話では、当時この歌は大ヒットしていたとのこと。僕は戦争中、日本の兵隊さんたちが愛唱したのはこの影響だろうと思っていた。

ところが、今回シャンソンではないかと指摘された知人のメールには、1925年、オランダのライデン大学に留学していたジャワの学生たちの歌った「Terang Bulan」がyoutubeが添付してあった。これを再生してみると、やはりクロンチョンのメロデイで歌詞も同じであった。

一体「Terang Bulan 」の起源はどうなのか。僕はシャンソンが起源ではないかとの指摘を受けて、マレー語のWikipediaで国歌「Negaraku」を調べてみたら、確かに同じような記述がある。19世紀の終わりごろ,英国の植民地であったマレーのペラのサルタンがインド洋のシェーシルに島流しにされていた時、フランス人のPiere.Jean de Barangerが作曲した「La Rosaie」を聞き、後年これをペラ州の州歌にしていたのだという。

一方、インドネシアには「Terang bulan 」について、こんな説もある。数年前日本インドネシア協会の機関誌に載っていたKompasという雑誌の抄訳だが「Terang Bulan」はインドネシア人のサイフル.バフリが作曲したもので。1957年マレーシアが独立したさい、当時のスカルノ大統領がバフリに対してマレーシアの国歌として親善プレゼントしたいと依頼があったので許可したのだというバフリの親族の証言があった。一つの歌の起源をめぐって色々あるものだ。






              地に落ちた法務大臣の資質       

2012-03-13 06:43:38 | Weblog
昨日の参院予算委員会の国会中継をみて僕は、ここまで政治家の質が落ちてしまったのかと慨嘆した。それは小川敏夫法務大臣が国会内で自分の競馬馬の調整模様をケータイで見たという、疑惑についての答弁である。自民党の世耕弘成議員の質問に対して、国会内でケータイを見てはいけないという規則はない、と自分を正当化するだけである。非常識だったという意識は全くないようだ。

法務大臣といえば、法の番人である。大臣の中でも一つ上の存在だと国民は思っている。その大臣が先月29日、野田総理と谷垣自民党総裁らとの党首会談に先立って、国会委員室で自分の持ち馬の調教模様をケータイで見ていた。小川法務大臣の答弁は委員室に時間より早く到着、党首会談まで時間があったので見ていただけだ。国会規則には休会中の国会内でケータイを使ってはいけないという規則はない、というのである。

見事な白髪の持ち主だが、言っていることはまるで”ガキつ子”である。東日本大震災後の日本の現状は政治の混乱もあって「国難」と表現する政治家さえあるほどだ。震災から1年経ってもいまだに30万人もの方が仮設住宅にくらしており、原発事故によって6万人が避難生活を送っている。こんな状況下、震災からの復興を政策の第一に掲げている内閣の一員が、法には反しないかもしれないが、ケータイで持ち馬の調教をチェックしていたというのは、とても一般国民には理解できない。

小川法務大臣は二頭の競馬馬を所有しているそうだ。世耕議員が大臣就任中は馬主を辞退したらどうかと質問したが、大臣は競馬馬の所有は自分の趣味だと、突っぱねていた。趣味はやめろとはいわないが、被災地の復興を考えれば、競馬で儲けた賞金ぐらい被災地に寄贈したらどうか。十分な議員歳費をもらっているはずだ。法務大臣の資質も地に落ちたものだ。

        何だったのか大震災直後の首都圏”計画停電”

2012-03-12 06:51:29 | Weblog
1年前の東日本大震災当時の小ブログを改めてチェックしてみた。震災翌日のブログは震災当日の家族の動静について書いているが、13日には早くも”後手後手の政府の地震対策”と批判、14日には”しっかりしてくれ、無計画な対策”そして15日には”首都圏は無政府状態”と突如発表になった東京電力の”計画停電”について庶民のいらだちと怒りをブログにぶつけている。

僕だけではなかっただろう。おそらくあの時期、大半の国民はそう感じていたに違いない。テレビの画面は大地震と巨大津波の模様を刻々伝えているのに、政府が正式に緊急対策本部を立ち上げたのは12日の持ち回り閣議であった。本来なら緊急非常時宣言をだしてもおかしくないのに、菅総理は原発事故だけに目がむき、事故現場の視察にでかけ災害全体の司令塔役を果たせないでいたのだ。

その後もやたらに○○対策本部とか▼▼統合本部とか××委員会はつくったが、全体をまとめる司令塔がなかった。災害直後は人命救助が第一なのにもかかわらず、自衛隊の出動要請も小出しに行われていた。早かったのは閣僚たちが、背広を脱いで作業服に着替えたことだけだった。

こんな中で、東京電力が13日深夜、首都圏に”計画停電”を実施すると発表、翌14日早朝の記者会見で枝野官房長官が内容を明らかにしてる。この突然の発表で14日の首都圏は交通網が混乱して、まるで無政府状態になってしまった。原発事故によって東電管内の電力が不足するのは、あらかじめわかっていたはずである。にもかかわらず”計画停電”を突如発表し、政府がこれを是認したのか、僕は今でも理解できない。結果的にはわが家の場合、一度も停電はなかったが、大震災の直後だけに心理的な負担は大きかった。まさか東電のサボタージュではなかったのかと疑いたくなる。