「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

高木復興相の「スキャンダル」と民主党の揚げ足取り

2015-11-11 06:02:15 | 2012・1・1
臨時国会を開くかどうか問題になっている矢先、突然(僕にはそう思われた)衆院予算会の模様が昨日テレビで中継放送された。案の定というか、待ってましたというか、民主党の油木道義理議員が週刊誌の報道で話題になっている高木毅復興相の「下着」スキャンダルを持ち出し追及した。週刊誌の報道によると、高木復興相が政治家になる、ずっと前の学生時代、知り合の家に侵入し女性の下着を盗んだことがあるという。高木大臣はこの話を頭から否定しているが、油木議員はわざわざ、高木大臣の地元まで泊りがけで行き、直接、調査してきたのだという。難問山積して臨時国会を開くべきだと要求しているのに、一方では興信所まがいの仕事までして、大臣の揚げ足取りまでするするとはご苦労さんの話である。

高木復興相には、この「下着」スキャンダルのほかにも公職選挙法に違反した「香典」疑惑が持ち上がっている。政治家本人が葬儀に出向いて香典を渡すのは合法だが、代理は違法だとのこと。高木大臣は直接葬儀に参列したと主張しているが、関係者はこれを否定している。こんな論議は国会の予算委員会ですべき問題であろうか。こんなに野党から色々と集中砲火を浴びたら大臣としての本来の仕事は出来るのだろか。


野党の打ってくる次の一手は、安倍総理の大臣任命責任である。過去にも何回も同じことをくりかえしているが、まったく馬鹿げている。政治が停滞するだけだ。数十年前のスキャンダルを蒸し返してもと高木大臣に同情しないでもないが、やはり大臣自身がHPにも書いているように”先を見通す力が抜群”ならば、ここは身を引くべきではないだろうか。

週に3回の病院通いと超高齢化時代の医療

2015-11-10 06:34:02 | 2012・1・1
今週は病院通いの日が3日もある。一昨年手術した膝の人工関節置換の4か月ごとのチェックと、昨年腹腔手術した大腸ガンの1年目の造影CT検査と内視鏡検査、それに不具合になった義歯の点検治療である。昨日は昼食の会合に出た後、午後2時半約束の病院へ駆けつけたが、やはり、ボケなのだろう。誤って他の病院の診察券を持参してしまった。4病院に通院していて、それぞれ診察券が違うのである。

膝の診察の結果は好かった。次は明日の造影CT検査である。あらかじめ病院からもらった注意書きを読み返し、健康保険証と共に、今度は間違いがないように明日の病院の診察券をチェックした。幸い、今僕は日常の常用薬はゼロだが、友人の中には何種類かの薬をのんんでいて、それも食前、食後の区別がある。やはり、飲み忘れたり、誤飲もあるらしい。

若い時の不摂生から、僕は20年も前から上歯は総入れ歯である。それに下歯も残る自分の歯も少ない。その下歯の部分義歯が不具合になり、通院するハメになってしまった、ネット情報によると、義歯と認知症とは相関関係にあるという。入歯が不具合で咀嚼力が弱まると、大脳の海馬付近の容量が狭くなり、認知症への引きガネになるらしい。幸い歯科医の事前の診断では、残り少ない自分の歯を抜かないですみ、咀嚼力も今まで通りだという。

老人医療費の高騰が問題になっている。出来れば病気にならずに済めばよいのだが、やはり加齢とともに身体のいろんなところにガタが出始めてきた。超高齢化時代を生きるのは大変なことである。


"血に塗られた土曜日”から52年

2015-11-09 07:06:26 | 2012・1・1
早朝NHKラジオの「今日はなんの日」を聞いていたら昭和38年11月9日(土)、九州大牟田の三井三池炭鉱の坑内粉塵爆発で458人が死亡、839人が重軽傷を負った日であり、東海道線鶴見駅近くの踏切で貨物列車が脱線、これに乗り上げた横須賀船線との衝突事故で161人が死亡した日であるとたんたんと伝えていた。これを聞いて、僕はほとんど忘れかけていたあの日の事を想い出した。

僕はあの日、新聞社の外信部の朝刊担当の夜勤デスクについていたが、夕刊締切直後に三池三井炭鉱の事故の第一報が入り、時間と共に被害は拡大するばかりである。仲間内で”今日は開店休業”だと冗談いっていた時に夜10時過ぎ、鶴見事故が舞い込んできた。仲間の一人が藤沢から通勤していたので、事故に遭遇しなかったと心配し自宅に電話したことを憶えている。恐らく一日にこんな大事故が二つも起きることはまず、これからもないのではなかろうか。当時この日のことを”血に塗られた土曜日”と呼んだ。

あれから52年、半世紀以上の歳月が流れた。最近、ノスタルディツクの想いをこめて”昭和30年代”が語られるが、思えば、経済大飛躍前の厳しい時代でもあった。ケネディ大統領が暗殺されたのもこの年であり、力道山がジムで暗殺されたのも昭和38年であった。しかし、一方では、将来の老人人口の増加に対応して老人福祉法が制定されたのもこの年で、先人たちが多難な時代の中にあっても将来への先見性があったことに感謝する。

「習馬会」の会談の成果と金門馬祖

2015-11-08 06:09:56 | 2012・1・1
1949年(昭和24年)の中台分離後初の首脳会談(習馬会)が7日閉幕した。何も共同声明は出なかったが、会談後習近平.中国主席が記者会見で”中国と台湾とは一つの中国である”という1992年の共同合意を再確認した旨強調し、現在、両岸(中台)の関係は最も平和で安定していると述べた。こんな原則論は会談前から判っていたことだ。やはり、、会談の狙いは、来年1月の台湾総統選挙を控えて劣勢が伝えられる馬英九国民党へのバックアップであり、野党民進党への”けん制球”ではなかったのではないか。

会談後の夕食会で,馬英九総統は持参した台湾の馬祖産の紹興酒を習近平主席にお土産として差し出したという。それで思い出されるのは、1958年の金門馬祖島砲撃である。中国本土から最短2キロにある金門馬祖は、台湾から百数十キロ離れているにも関わらず台湾が実効支配している。当時、中国はこれに対して8月から10月にかけて44日間、連日砲撃を繰り返し、国際問題化したが、結局、国連安保理の勧告もあり、国際世論に負けて中国は砲撃を中止した。

現在、金門馬祖へは両岸から自由に渡航でき、観光地となり当時の砲弾の鋼でつくった包丁が島の名物になっているそうだ。金門馬祖砲撃には470,000発の砲弾が撃ち込み帰属を主張したのに今は、その主張はどうなっているのか。、もちろん今回の会談では帰属問題は議題にもならなかったようである。”一つの中国”であり、台湾もそうだからという訳なのかもしれない。

今回の首脳会談の結果が1月の台湾総統選挙にどう影響するだろうか。馬英九.国民党が進める「以経促統」政策が勝利するか、それとも中国との間に一歩おく野党民進党が政権に帰り咲くか注目される。

小春日和 子福桜が満開の砧公園

2015-11-07 05:40:42 | 2012・1・1
明日、11月8日は暦の上では立冬だが、昔からわが国では立冬前後には暖かい春のような陽気が続き「小春日和」と呼んでいる。一昨日、この小春日和に誘われて、近所に住む70年来の友人二人と連れだって弁当持参で東京の砧(きぬた)公園へ散策に出かけた。

東京ドームの恐らく数十倍はある広い公園はまだ紅葉には早かったが、千本近くあるケヤキ林は晩秋のたたずまいを見せ、シラカシの木の下では親子連れがちいさなどんぐり拾いを楽しんでいた。よく手入れされた芝生近くに植えられてある、1年に2回花を咲かせる子福桜は今が満開である。子福桜はバラ科のサクラ属の外来種との混合種だそうだが、春と晩秋から冬にかけてのこの季節に白い可憐な花を咲かせる。

「小春日和」は北米でも同じ陽気があり”インディアン.サンマー”と呼ぶそうだ。インディアンが間もなくやってくる冬に備えて暫しの休息を楽しむ季節だという。また、比喩的にこの季節を人生の晩年にたとえ、暫しの安息を楽しむ季節だともいう。僕ら80歳半ばの三人は、大げさに言えば、地平線が眺めラられるような芝生の一角のベンチに座り、”こしかた”と先が見えてきた”ゆくすえ”について話し合った。まさに”インディアン.サンマー”のひと時であった。

砧公園は昭和15年の皇紀二千六百年の祝賀記念として当時の東京府が緑地として造園したものだが、戦争中は食糧増産のため畑になり、戦後も一時期ゴルフ場として使用されてきた。このため一般都民に公園として開放されたのは比較的歴史が新しい。このためか都民にあまり知られていないが、こんな都心に近い場所で自然が楽しめるなんてもったいない穴場である。

日本人が見られないインドネシアの日本歴史遺産

2015-11-06 07:29:39 | 2012・1・1
小ブログ「オランダ350年植民地終焉の地カリジャテイを知らない日本人」(2015年3月7日更新)を見た関西在住のIさんが先月カリジャテイを訪れ、その訪問記を送って頂いた。Iさんはバンドンのホテルから運転手兼通訳の車をチャーターして現地へ出かけた。事前の調査で、インドネシアではカリジャテイの名前は歴史教科書にも出てきて誰もが知っているという話だったが、雇った若い運転手は知らなかった。Iさんは、現在インドネシア軍の空軍基地内になっている旧日本軍の慰霊碑は事前の届け出がないと墓参出来ないのを知っており、基地近くで持参した日本酒と煙草を献納、お線香をあげるつもりであったが、基地の衛兵は基地の営門近くの部屋(多分イスラム礼拝所)へ案内した。

Iさんは、一応目的を果し帰途に着こうとしたら、衛兵がパスポートのコピーをし、基地内での写真撮影をしなければ、日本円で衛兵1人につき千円(3人いたので3千円)出せば案内するといってききた。Iさんは折角遠路やってきたので、申し出を受け基地内を案内して貰ったが、慰霊碑の前も素通り、さらには一般に公開されている、蘭印軍の総督や司令官が、第16軍の今村均将軍に全面降伏した博物館「歴史の家」(”Rumah Sejarah”)さえ案内しなかった。

シンガポールには英国軍が第25軍(山下奉文司令官)軍にやはり全面降伏した、ブキテイマ.フォード工場跡に現在博物館が建てられ一般に公開され、古くは日露の役の出師営跡も観光スポットになっている。カリジャテイの「歴史の家」も公開したらどうなのか。東京の国立近代絵画館には、カリジャテイを描いた小磯良平画伯ほかの戦争画が保存されている。複製でもよいからインドネシア側に提供したりして、歴史遺産に協力すれば、日イ双方の友好に役立つと思うのだが。併せて見放されている日本軍慰霊碑の保存にもなる。

大東亜共栄圏会議とスカルノの舌うち

2015-11-05 06:01:43 | 2012・1・1
72年前の昭和18年10月5,6日東京で大東亜共栄圏会議が開かれた。史上初の今流でいえばアジア.サミットである。この年の5月、天皇御臨席の下で決定を見た「大東亜政略指導大綱」に基づいて時の東條英機総理が招集したもので、アジア諸国から中華民国(南京)汪兆銘、満州国張景恵、フィリピン.ホセ.ラウエル、ビルマ.バー,モウ、タイ.ワンワイ.タヤコン、それにインド自由政府からチャンドラ.ボース、6人の首脳が参加した。

しかし、同じ大東亜共栄圏でもインドネシア(蘭印)マラヤ(英領マレー)からの参加はなかった。その理由は「大東亜政略指導大綱」によって”マライ、スマトラ、ジャワ、ボルネオは帝国(日本)領土と決定し、重要資源の供給源として極力,之が開発並びに民心の把握につとめる”と決定されていたからである。だが、会議には参加しなかったが、インドネシアからは、独立運動の指導者、スカルノ(初代大統領)とハッタ(同副大統領)別途、東條首相に招かれ訪日、天皇陛下にも謁見している。

この時スカルノ、ハッタに通訳として同行した寺田喜市氏(故人、元ジャカルタ総領事)が、「友愛だより」という戦前蘭印に居住した方々の集まりの機関誌(平成11年8月号)に次のように書かれている。「一行は東京で東條首相にお目にかかったが、そのとき、同首相はインドネシアの独立には一言もふれなかった。会談後、スカルノさんもハッタさんもイライラして顔色もさえなかった。(中略)スカルノさんは何か気にいらないことがあると、ちょっと横をむいて、チェつと舌うちする癖がある方だったが、帰国後、日本側から「独立準備調査会」の提案を聞いて,チェつと舌打ちをされた」

その後、昭和19年7月、東條内閣にかわって小磯内閣が誕生「大東亜政略指導大綱」も見直され、インドネシアの独立も認められた。準備調査会の計画案で20年9月7日、独立することに決定されていたが、8月15日敗戦となり、インドネシアは17日、独自に独立した。今、思えば「大東亜政略指導大綱」は、日本の大東亜共栄圏構想にとって瑕瑾であった。




晴れの特異日ではなくなった「文化の日」

2015-11-04 05:46:41 | 2012・1・1
11月3日は「文化の日」、国民の祝日であった。何故この日が「文化の日」か今まで寡聞にして知らなかったが、、テレビ番組で憲法の交付日であるの事を初めて知った。僕ら昭和1ケタ世代にとっては、やはり「文化の日」というより「明治節」の方が懐かしく、ぴたりとくる。戦前から昭和22年まで11月3日は「明治節」といい、明治天皇の誕生日であった。戦前は学校は休みで授業はなかったが、祝賀式があり、国歌と「明治節」の式歌を歌い、お祝いのお菓子を貰った。

”亜細亜の光、日出ずるところ”で始まる「明治節」の歌は、70年以上たった今でも僕は楽譜なしでも歌える。中でも三番の”秋の空すみ、菊の香たかき今日の佳き日を皆ことほぎ、定めたまいし御憲(法)を崇め”の歌詞は季節感があふれていて好きな一章だ。「明治節」の日は晴れの特異日といわれていた。昨日も前日雨だったのが3日には朝から晴れ上がった。しかし、NHKのお天気キャスターによると、この20年ほどは必ずしも晴天ではなくなったそうである。

そういえば、東京では昔のような”天高く馬肥ゆる”秋空ではなくなった。また、”菊の香高き”といっても、周囲であまり菊の花を目にすることがなくなってきた。戦前、子供の頃は、遊び場であった路地裏の長屋の家の前にも懸崖の立派な菊があったものだが、今、わが家の周りには一つもない。この季節、昔は東京でも菊人形展が各地で見られたが、今はあまり聞いたことがない。

「文化の日」に変って、お天気まで変わったわけがないが、年々、都会では季節感が失われてきたのは事実だ。それと「明治節」も時代は家の門(かど)ごとに日の丸が見られたものだが、「文化の日」になってからはその風景はなくなった。

朴槿恵大統領 雨を降らせていては地は固まらない 

2015-11-03 06:25:58 | 2012・1・1
阿倍晋三総理と韓国の朴菫恵大統領との会談が終わった。慰安婦問題については”将来世代の障害にしないため早期の妥結を目指して外務省局長交渉の加速化”で一致した。しかし、産経新聞の見出しは「日韓”慰安婦”平行線」である。最初、テレビの報道で、慰安婦問題交渉を加速化という言葉が耳にしたとき、僕は安倍総理が”慰安婦問題は日韓基本条約で解決済実”の基本的な日本の立場を変えたのかと錯覚した。しかし、そうではないようで安心した。

朴菫恵大統領、会議所で精いっぱいの愛嬌を振りまいていた。会議の成果についても”雨降って地固まる”と評価しているようである。しかし。ここ数年両国関係がギクシャクし始めたのは、李明博前大統領の一方的な竹島上陸や朴大統領のかたくなな”従軍慰安婦”による反日政策である。日本が雨を降らせたのではなく、降らせたのは韓国側である。折角、3年半ぶりに開かれた首脳会談である。この友好関係を維持するためには韓国が、これ以上雨を降らせないことだ。

一方的に問題をこじらせている「従軍慰安婦」問題が、外務省の局長級会談を加速化したって根本解決するとは思えない。過去に「アジアのための女性基金」という好例がある。日韓基本条約で解決済みの問題を、変な情報に踊らされて、妥協したため、問題をこじらせただけで何の成果もなかった。安倍総理は先の70年談話でも”将来世代”に言及しているが、歴史を曲げてまでして慰安婦問題で妥協してはならない。歴史事実はきちんと後世に伝えるべきである。変に妥協すれば、”従軍慰安婦”は、韓国だけではなく世界中にその汚名が拡散してしまう。

仮装したくとも衣類さえなかった65年前のあの時代

2015-11-02 05:55:45 | 2012・1・1
同じ集合住宅の階下に住む、大学2年の孫(男)が先日、ハロウイーンの夜ピエロの恰好して渋谷へ出かけたと老妻から聞いた。”あきれてものもいえない”といいたいところだが、物わかりのよい夫婦である。僕は”ふん”、”ふん”と聞くだけで、昔、孫と同じ年齢であった、昭和25年(1950年)のあの時代を想い出した。

昭和25年といえば、まだ都心部でも戦争の傷跡が残るバラック住宅が多かった。朝日新聞の連載小説「自由学校」(獅子文六)が話題となり、これが松竹と大映で競作となって二つと超満員の観客を集めた。映画の内容は、戦争が終わって平和になった夫婦が、お互いに自由勝手なな生活を始める、といったものだったが、僕は映画の中で、”自由”を求めて家出した主人公が、JR御茶ノ水(東京)駅近くの神田川の土手の上でホームレス生活していたのが印象に残っている。

僕はといえば大学のセッツルメント運動に参加し、東京の下町にあったキリスト教会で子供たちに英語を教えていた。焼跡の教会は進駐軍の払い下げのトタン屋根の”かまばこ”兵舎であった。イースターだか、クリスマスだか忘れたが、教会で、これまた進駐軍払い下げの中古衣料のバザーが開催され大盛況であった。戦後極端な衣料不足で、学生は一張羅の学生服だけ、おしゃれしたくとも衣類が買えなかった時代であった。

輸入された洋画を通じて、アメリカ人の生活がまぶしく、憧れを感じた時代であった。65年後まさかこんな飽食の時代となり、ハロウィーンで盛り場が仮装した若者で一杯になるとは当時想像も及ばなかった。平和な好い時代でsる。