「老人タイムス」私説

昭和の一ケタ世代も高齢になりました。この世代が現在の世相をどう見て、考えているかーそのひとり言。

サッカーの勝利をTV観戦しなかった老人の独り言

2018-06-20 05:18:31 | 2012・1・1
今朝、このブログを書くため、PCを開き初めて日本のサッカー.チームがロシアのワールド大会で、コロンビアに2対1で快勝したのを知った。サッカーの国際大会は最近、まるで国民的な行事と化し、老妻まで大騒ぎだ。僕もTV応援するつもりでいたが、ラジオで野球のナイターを聞いているうちに眠ってしまった。若い人には笑われるが、年は取りたくないものだ。最近は8時には床についてしまっている。

もともと、僕はサッカーにはあまり関心がない。スポーツが”氷河期”だった戦争中から戦後すぐの時代に中学(旧制)時代を送っている僕ら世代はスポーツといえば戦後いち早く復活した野球ぐらいである。食べるのがせい一杯であり、特に道具のいるスポーツは、やりたくともできなかった。戦中は教練と並んで体操の授業は一応あったが、鉄棒と体操ぐらいしか記憶がない。

サッカーという言葉を聞いたのは戦後かなりたってからだ。昭和32年(1958年)に東京でアジア大会が開催され、サッカーにも14チームが参加、そのうちの1試合を取材しているのだが、当時、サッカーはサッカーと呼ばれず,フットボールとか「ア式蹴球」とも言われていた。恥ずかしながら、僕は最近まで「ア式蹴球」はアメリカン.フットボールと誤解していた。サッカーの語源が「association football 」の”soc"(仲間)にCを加え、人を意味する”er"を加えた造語だというのを知ったのも最近のことだ。

わが国に限らず、世界中の国々がたかがボール一つのケリ合いに一喜一憂するのは良いことだ。トランプさんや金正恩さんはどうなのだろうか。興味あるところだ。

ブロック塀の倒壊 生かされなかった宮城県沖地震の教訓

2018-06-19 05:50:33 | 2012・1・1
高槻、茨木、箕面など大阪北部を中心に昨日の朝、震度6弱の大きな地震が起こった。大阪での震度6弱の地震は1923年、記録をとり始めて以来初めてとのこと。被害の規模は調査中だが、人的被害だけでいうと、死者4人で済んだのは不幸中の幸いであった。

テレビの画面で高槻市の小学校のプール脇の高い外壁が倒れ、登校中の少女が巻き込まれ死亡した。また、大阪市東淀川区でも80歳の男性がブロック塀が倒壊死亡した。僕はこれを知り、40年前の宮城県沖地震の教訓が生かされなかったのか残念に思った。宮城県沖地震は昭和53年6月12日発生したもので、震度5、マグニチュード7.4だったが、死者28人、負傷者1,353人を出している。ちょうど、この日僕は札幌の病院に入院中で、記憶が鮮明なのだが、新聞は死傷者が多かったのはブロック塀の倒壊によるものだと書いていた。

宮城県沖地震の後、阪神.淡路大震災(1995年)東日本大震災(2011年)熊本震災(2016年)と大きな震災が起きているが、ブロック塀が話題にならなかなったのは、多分、規模が大きく地震のほかに津波、原発事故などがあったためだろう。僕の記憶によれば、都会では宮城県沖地震の後、ブロック塀は嫌われてきている。

今回の地震は近くを走る有馬.高槻断層帯に原因しているという。芝居で有名な「地震加藤」の慶長伏見の大地震と同じ断層である。400年も前の地震である。めったに発生するものではないが、何とか地震が予知でき、被害を防げないものだろうか。東京首都圏でも、このところ”スロー.スリップ”が原因という地震が多発している。A!(人工技能)の応用でなんとかならないかと素人はおもいたくなる。

110年前の亡父の徴兵身体検査令状

2018-06-18 05:06:24 | 2012・1・1
家に定期的に”何か古い捨てるものはないかと電話がかかってくる。そのたびに老妻が丁重に断っているが、実際には屋根裏の物置に”捨てたい”ほどガラクタが眠っているのだが、物のなかった時代に育った世代の”業”みたいなものだ。捨てられない。それでも、電話に触発されたように時々整理をするのだが、一向に作業は進まない。

そんな日々の中で、日露戦争の日本海沖海戦で東郷平八郎司令長官が掲げたZ旗の“皇国の興廃この一戦にあり”と書かれた元帥自筆の掛け軸(複製?)に混じって亡父宛の徴兵身体検査令状が出てきた。(写真)A4型半紙に印刷されており、東京市本郷区(現在の文京区)長發、日付けは明治39年2月7日となっている。

亡父は東條英機元総理(大将)や山本五十六連合艦隊司令長官と同じ明治17年生まれで、日露戦争(明治37年2月ー38年8月)中に満20歳の徴兵年齢を迎えている。それなのに父の徴兵身体検査令状は戦争が終わった後の日付である。推察だが、父は当時、大学生(早稲田)だったので、徴兵延期になっていたのかもしれない。生前、軍隊の話はめったにせず、自分は歯が悪かったため、徴兵にとられなかったと語っていた。

徴兵身体検査の令状をよく見ると、「明治三十」までは印刷さているが、次の一字は空白になっており、「九」の字は直筆である。父がなぜ、この一枚の紙を残しておいたのか。”お宝”的な価値はないが、やはり、わが家にとっては残しておかなければならない。

「父の日」 変わってきた日本のお父さん

2018-06-17 05:46:24 | 2012・1・1

6月の第三日曜日は「父の日」である。昨日、たまには外気に触れようと、駅前のスーパーへ買い物に出かけたら、レジの横の壁に幼児が書いた”お父さん”の絵が張られていた。(写真)子供の絵は、表情が豊かで色彩感もあり見て楽しい。

「父の日」といっても、僕ら老人には馴染みがない。調べてみたら半世紀前の1970年,時のジョンソン米国大統領によって祝日に制定され、それがコマーシャリズムに乗って日本にも入ってきたものだ。僕の父親は68年、84歳で他界している。だから僕は「父の日」を祝ったことがない。

この半世紀、日本の”父親像”ぐらい変ったものはない。戦前、わが国では”地震、雷、火事、親父”と恐れれた存在であった。一家の家長として自他とともに認められ、子供たちには、とても怖い存在であった。それをいいことに、"亭主関白厨房に入るべからず“で、家事一切は妻に任せていた。まして、育児に至っては、まったく手をこまねいていた。それが今は違う。夫の産休も法律で義務付けれている。亭主が赤ん坊を抱いている姿も定着してきた。

僕ら昭和1ケタ前半生まれは 戦前日本の”父親”の最後の世代ではないだろうか、とても平成の今の”父親”としては失格である。僕らには赤ん坊のおむつの交換はできない。明治生まれの父親がいつまでも長火鉢の前に座って、晩酌を楽しんでいたが、今はその姿は時代劇の中でしか見られなくなった。

認知症見守り安心ステッカー

2018-06-16 05:38:26 | 2012・1・1
僕が今住む東京の目黒区の広報に高齢者見守り安心ステッカーが紹介されていた。認知症の高齢者が外出先で自分の名前や住所が言えなくとも服や靴にステッカーがあれば、それが手掛かりで早期帰宅できるケースが多いそうで、区では申し出があれば、衣服用に2枚、靴用に4枚、無料で提供するという。この記事を見て、高齢者の一人として色々考えせられた。

警察庁によると、平成29年度、認知症やその疑いで行方不明になったと警察に届け出があったのは全国で1万5862人もあったそうで、1万人をこえたのはは5年連続で、5年前に比べると1.6倍といことだ。大部分の老人は早期に発見されているが、470人が死亡して発見されている。幸い、僕の周囲には、認知症による、いわゆる”彷徨”の話はないが、在宅医療の増加で”彷徨”で悩んでいる関係者が増えている。

先日、都内の老人看護専門の病院へ知人の見舞いに訪ねたらエレベータの昇降を示す印がない。係の職員に聞いたら、無断外出の患者が多いので、印を隠してあるのだという。専門の施設でさえそうである。一般家庭では、認知症の老人を四六時中、監視するわけにはいかない。その意味では安心ステッカーは早期発見には役に立つ。

元治元年(1864年)生まれの祖母が、戦前、僕が子供のころ喜寿(77歳)のお祝いを迎えたが、認知症の”彷徨”で家族を悩ませた。しかし、80年前の日本の社会は、人生50年の時代であり、高齢者も少なく社会全体の問題ではなかった。ステッカーは、簡単にアイロンんで衣類に張り付けられるそうだが、独居の老人も増えてきて、中にはアイロンさえかけられない。何かもっと根本的な認知症対策はないのだろうか。

人生100年時代 人間らしさの医療介護を

2018-06-15 05:33:07 | 2012・1・1
政府の「人生100年時代」構想会議の基本構想がまとまり新聞に出ていた。中曽根康弘元総理が先日100歳の誕生日を祝われ、僕の周りにも100歳を越えられてお元気な方が二人もいる。人生100年が夢ごとではなく、つい、目の先にまでやってきた感じだ。しかし、87歳の僕には、基本構想の出発点が、人口減と高齢化による”働き方革命”に対処するためのもので、人生100年、いかにいくべきか、その医療福祉行政の現実や哲学にかけている印象だ。

今の老人医療の基本となる後期医療制度は、今から10年前の2008年福田康夫内閣の時に施行された。民主党など野党が”おばあちゃんの原宿”巣鴨の街で反対の大集会をひらき、民主党は廃止を選挙のマニフェストにまで掲げた。これに対し、福田総理は”長寿医療制度”と名前を変えたが、僅か10年で一部改正され、団塊世代が全員75歳となる2025年に対処できなくなっている。

「人生100年」の働き方革命とどう関係があるのか僕にはよく理解できないが、構想は国立大学の無償化を提案している。働く現役世代の負担を少なくするのは理解できるが、それより藻超高齢化時代の医療福祉増大をどうするのかだ。

15日早朝4時からののNHKラジオ「深夜便」の”明日への言葉”のコーナーで国立医療センターの本田美和子先生が提唱している、フランスの介護哲学“ユマニチュード”を紹介されていた。一口で言えば、人間的な介護である。介護にあたり相手に人間らしく接するだけのことだが、介護だけでなく今の日本社会にかけているのは ”ユマニチュード”欠如ではないだろうか。大学の無料化より、社会奉仕を通じて若者に”ユマ二チュード”精神を学ばせたらどうだ。

コンクリートの壁を破って 雑草の生命力

2018-06-14 17:26:49 | 2012・1・1

コンクリート.ジャングルの東京では、自宅の小さな庭以外、「土」を見る機会が少なくなった。梅雨の合間をみて家の周りに出てみたらすごい生命力である。名を知らない雑草が、コンクリートの壁の割れ間から顔を出していた。戦前、東京には”原っぱ”があり、”猫じゃらし”がいたるところにあり、野良猫君もウロウロしていたがー。舗装された道からは石も消えてしまった。僅か70年でこの変化である。

びわの初物 ハウスと輸入品で季節感がなくなってきた果物

2018-06-14 05:48:56 | 2012・1・1
昨日、老妻が初めてスーパーでびわ(枇杷)を買ってきた。わが家では今年の初物だ。ハウスものと輸入品の登場で、今では世界のいろんな果物がいつも店に並んでいるが、やはリ、昔気質の老人は、多少高くとも季節を感じるものが欲しくなる。でも、東京では最近、果物専門に扱う店が少なくなってきた。戦前、果物は”水菓子”と呼ばれることが多く、駅前や病院前には、パインやバナナなど当時の高級果物を入れた籠が、うやうやしく店頭に飾ってあったものだ。

戦前の昭和には折々の季節感が強く感じた。6月、梅雨時の今頃になると、僕はイチゴを想い出す。ハウス栽培前、イチゴは今が旬だったのであろうか。東京では6月は、伝染病の接種期であり、家族はそろって指定された場所で注射を受けた。子供だった僕は注射の後、母親からイチゴを買ってもらい、牛乳にイチゴと砂糖を入れ、スプーンでつぶして食べたのが、70余年たっても忘れられない。

23区内の東京でも庭木として柿、枇杷、ザクロ、イチジク、ブドウなどが植えられてあった。それぞれの収穫時には子供は黙って盗んで食べたモノだが、たいていは手入れが悪くおいしくなかった。

スーパーの店先には早くも6月だといのにスイカが並んでいる。大のスイカ好きの僕だが、やはりスイカは真夏の太陽がギライラ照り付けた下で食べてこそ美味しい。それに足腰が弱り、年寄りでは持ち運びができなくなってきた。そうかといって、半分、四分の一に切ったスイカはスイカに見えない老人である。

安倍内閣 他力本願だけでは

2018-06-13 05:59:22 | 2012・1・1
昨日一日、テレビの前でシンガポールでのトランプ.金正恩の米朝首脳会談にクギ付けされるようにしてみた。二人の一挙手一投足、顔の表情に真実をよみ取ろうとしたが、僕が見る限り、会談は一見成功だった。しかし、専門家に言わせると、朝鮮半島の非核化への道筋は示されていない。ただ北朝鮮にとっては、国の体制が保証され、ほっとしたことであろう。わが国にとっては、トランプから確かに拉致問題は会談で提起されたが、北の反応はまったく伝わってこない。

米朝首脳会談の後を受けて安倍晋三総理は”拉致問題はトランプ氏の強力な支援をいただきながら、日本が北朝鮮と直接向き合い解決していかなければならない“(産経新聞)と語っているが、今更の感がないではない。安倍総理は、拉致問題解決は国の最重要問題の一つとしているが、第二次内閣発足以来5年になるが、直接、総理が問題解決で外遊したことは聞かない。総理は外遊78回、ロシアのプーチンだけでも21回もあっている。

シンガポール.サミットと時を同じくして、マレーシアのマハティール首相(92)が訪日、また安倍総理とトップ会談をしている。マハティール首相は、中国一辺倒よりのナジブ前政権に代わって10数年ぶりに再登場、最初の訪問国に日本を選んだ。マレーシアといえば、昨年北朝鮮の金正男(金正恩の実兄)がクアラルンプール空港で暗殺され、それを契機に両国は国交を断絶している。

金正恩は”これまで来るには大変だった”と言っているが、米国と友好関係を結んでも、わが国とは拉致問題、マレーシアとも暗殺事件と迷惑をかけ、いまだに謝罪していない。北朝鮮が国際社会に復帰するには“ないらずもの”国家の返上である。

拉致問題解決絡んだ対北朝鮮外交策定を 10年前の失敗の轍

2018-06-12 05:03:20 | 2012・1・1
自民党の山崎拓.元副総裁(82)が「米朝会談」のこの時期に韓国の李洛淵首相と会い、北朝鮮問題について話し合ったようだ。YKKの過去の人であり、日本の外国には影響はないと思うが心配である。

十年一昔というが、2008年(平成20年)6月15日の小ブログに「対北朝鮮二元外交は困ります」というタイトルで、山崎拓氏が「日朝国交正常化議員連盟」という超党派のグループお民主党の川上義博氏、社民党総裁(当時)福島みずほ氏らと結成、拉致問題に絡む北への制裁措置を解除すべきあと主張した。時代は北朝鮮が拉致者の再調査を約束、政府(福田康夫総理)も歓迎を表明していた。

当時から十年、拉致問題解決に何か進展はあったか。山崎氏の”国交正常化”連盟は今でもあるのか。小ブログによると、当時総理の座を降りていた安倍晋三氏は、山崎氏らの動きに対して”有力議員が、政府より甘い言葉を言ってはいけない”と批判している。確かに山崎氏らの動きは二元外交ととられても仕方がない。

米朝会談で、トランプは拉致問題は議題に持ち出すだろう。しかし、金正恩が果たして”分かりました”と即時被害者を日本に帰国させるだろうか。日本人なら当然そう期待したいのだが、過去の経緯からみて難航しそうだ。将来の国交正常化をにらんで、拉致問題解決が切り札である。政府はすでに策を立てていると思うが、十年前の轍を踏んではいけない。山崎氏はすでに過去の政治家である。口を出すべきではない。