可愛いじゃん、というのでビデオ機材のレンズが向いたんだろう。最近不思議に思うのが、ビデオ撮影の自己規制の高まりだ。なにかという「これ撮っちゃいけないんじゃない!?」と自己規制が働く。例えば人物の顔をぼかしているといった具合に。いったいどこからそんな殊勝な考え方が出てきたのだろうか。
そんなことを言っていたら撮影という行為が存在しない、どこかナチスドイツの帝国主義の世界かと思いたくなる。特定の人物とわかる撮り方をするときは相手の了解が必要だけど、それ以外の公共空間では自由だ。まして公共空間に存在している人物を群衆として撮るのは自由だ。それも街の風景だからだ。
京都を撮り歩いていると、当然他人の作品もよく見る。それにしてお決まりのポイントばかりで、もどうしてこんなに紋切り型のつまらない京都にしてくれるのだろう。京都人には、そこが大いに疑問だ。
映像は感性の産物である。だからどこをどのように撮るかというのは感性の働かし処だし、いつどんな光の中で撮るかというのも感性の判断だ。そうして撮影した画像を編集するとなると、これも感性と論理を最大限に働かすステージだ。撮影後の映像からどこを切り取りどう編集するかというのも、感性のフル稼働が必要な作業だ。
というのも何も考えずに安易に映像をつなげている作品が多く、私から見れば、オイオイ、この編集ステージこそが感性の働かしどころでしょうよ、と言いたくなる。即物的な話しに限っても色調整は最大の感性の働かし処だ。映像の記録は、できるだけ白飛びや黒つぶれがないように記録しているので、後で行う色調整は必須になる。
そうやって記憶色に戻して映像素材となる。そんな色調整をしない映像が多いと思っていたら、今度は地味なS-Log処理が流行っていたりする。だから京都の街など昭和の頃の映像になってしまって、これってアンタの意図なの?。そうだとすれば京都人とは随分違う感性だなと思う。つまり撮影技法などをYouTubeなどで学んで、こう撮る物だという先入観に支配されているのだろう。そんな映像が多いので、こちらは少し辟易している。
そんなわけで感性を働かせる訓練を日夜している画家やデザイナーなどは、映像の撮り方が大変旨い。
日本は、感性を働かせる教育を、あまり体系的にしてこなかったというのもある。だから自分でものすごく勉強する他ないのだが・・・。
京都市、東山界隈
SONYα6600,E18-135mm/F3.5-5.6.