ウソの研究

世の中の風景は、地球や子供のことをほったらかして、小泉小劇場で舞台と観客は、笛や太鼓で一体となってもう騒然 というもの。
長い教師生活の感想の1つは、お堅いと思われている人たちの言葉になんとウソの多いことかだ。(勿論自分を含めてである)「嘘をついてはいけません」と教える教師を始め、
専門家、学者、新聞やテレビ(政治家は勿論)、などなど。60年前戦争に敗れそこで、戦前の色々な権威が戦争を正当化し、戦意発揚の具に事実でない情報を発し、多くの人がそれに追随していたことも少なからずあった。学校も、新聞やラジオも総動員だった。それでも、戦後育った私達は、人殺し、盗み、うそつきは最低の人間として、先生からも親からも教えられた。だから、ほとんどの大人は、ウソをついたとの自覚はなく、以前のことは時代だから仕方なかったと思っていたようだ
今、戦争はしていないが、権威や公が自分たちの都合で事実から離れて語り、多くの人たちがそれを自分の考えであるかのように口づたいに話す様は、ウソは戦争と関係ないのかなと思うぐらいだ。
養老さんでなくても、神経の関係でいうと、意識を離れた事実は存在しないことは事実だ。だから仕方ないといえばそれまでだが、ウソとは自分の都合ではなす言葉であって、普通はは気が付いたとき訂正するものだ。だから人は誰でも言葉に対しそれだけの謙虚さが必要だと思う。ウソは集団的になったとき、デマというのだろう。
ところで構造改革にしろ郵政民営化にしろ
「これしかない」の○×式で一元的な判断は、賛成や反対の判断に関わりなく,首肯できない。物事は変化し、絶対的には存在しえないからだ。新聞テレビのメディアは「支持」を表明し、それを中心として情報を流し宣伝している。考えると胃が痛む。辛いから考えた。(そうだ、これは以前あったほめ殺しだ)と。これだけ応援団が揃えば、選挙結果はほぼ見当が付くが歴史的な評価は少し4~5年先延ばしになるだけだろうと思うとすーと楽になる。只その時のつけは、社会全体であり、子供にまで及ぶだろう。19×19の碁盤ですら、定石はあってもここしかないという手は存在しない。だから囲碁も限りなく進歩する。スポーツにしろ芸術にしろ同じだと思う。賛成する人たちも反対する人たちも(絶対)を持ちださず、おちついて具体的に考えてほしい。具体的であれば当然大言壮語は必要なく、丁寧な話し方になるはずだ。偉そうに言っちゃってご免なさい。気になってしようがなかった。
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