新しい教育や教育運動

子供と地球のことを置き忘れ、うつつを抜かしてる大人達。自分の40年間の教師生活もその群の中にあった。と今になって気が付く。一応児童中心の民主教育を心がけてはいたが、今の時代の様相を見ると、反省の1語だ。教室の実践でも、、児童の自主性・集団性・文化性を基本にはしてきたが、子供達を学習の主体者としては関わってこなかったと言っていいほど不十分だった。教師が主体で子供は自主性を尊重されつつも対象でしかなかった。育つ子供が主体で、教師が対象になってもいいはずだ。
教育運動においても、その主体者は教師や父母国民であった。運動の主体者として子供達を考えていなかった。多分に教育や運動は大人の責任という常識からだった。ただ、今日の地球や子供達の姿は、危惧しながらも(そうならないように)との考えだった。ここまでは予想もしなかった。しかし今日の事態や今後を考えると、大人ではすでに間に合わないのかも知れない。取り残されてる子供や地球の被害は確実に増大している。(子供を車に置き忘れパチンコに興じる大人)がいたとき、居合わせた人ははまず子供を車内から運び出すことだ。)これは全てに言える。最も被害を受け将来を危うくなっている子供達に、まず気づいてもらわなければならない。そこで子供達はどうするか。お手伝いすることがあれば大人はやるだけだ。今の事態を知りそこから回避しようとする子供達を、未成年だからといって押さえてなならないだろう。
登校してくる子供達はどの子もストレートに表には出さないが大変そうに見える。でも彼らはそれを表明する場所もない。ほとんど学校にしろ家庭にしろ本音の言えないのが実態ではないだろうか。なぜなら(うつつを抜かしてるとは悪い表現だが、)ほとんどの大人が(教師や親も学者も政治家も)子供や地球の現実と向き合う余裕をもう既に失っているからだ。結局は社会も教育も運動も基本に帰るしかない。それは育つ子供を真の主体者とすることだ。全く発想を異にした新しい物として映ると思う。まわりは官民問わず、守旧派が多くて、これも可成り大変だが、爽やかさが今とは全く違うだろう。
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