コマーシャルの罪

テレビを見ている途中のコマーシャルは昔から目障りではあった。でも、視聴料も払っていないし仕方ないだろうと諦めていた。最近のコマーシャルはさらにエスカレートし、通信販売の番組の時間も組まれ、否応無く1日中、茶の間に溢れる。見ているとやはり良い商品があるし、買おうかな?とそそられることもある。ところで、欲しくてもお金が無くて我慢ばかりしなくてはいけない人は、どんな気持ちになるだろうと心配になった。社会から取り残された、敗者のような惨めな気持ちに追いこめられないだろうか?そのようなところに長く閉じ込められたとき、人はそこから抜け出すためにどんな行動に走るだろうかと考えた。欲求不満やストレスを解消するヒトの行動にモラルや法の力は比例的に弱くなる。犯罪を超えた≪何故≫と言いたくなる事件が予定されたように相次ぐのを見ていると、社会に蔓延する商業主義的な派手な世相が無関係には思えない。もしこれに因果関係があるとするなら、犯罪の予防のためと、地球資源を枯らさないため何らかの規制があっても良いのではないだろうか?

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政経分離

政教分離とは言っても。政経分離とは言わない。勿論そんな法律や、制度は無い。ただ、日本の今日のように体力をなくした経済を見ていると、経済に対する政治の役割が機能してこなかった結果だろうと思う。経済と政治がはそれぞれのの立場を堅持しながら、力を合わせ経済社会の発展に寄与するすべきだが実際は、お金を稼ぐ経済団体に、お金を使う政治が一方的に依拠・依存して来なかったか?と思う。現場でお金を稼いでくる人たちを大事にしてきたことは良いのだが、コントロールタワーの役割を忘れてる。現場の人は稼ぎのためならつい体力の消耗もいとわない。スポーツ選手の場合も同様で、そこをコントロールするのが監督に仕事だろう。日本の経済は監督やコーチのいないスポーツ選手のようなもので、頑張りすぎて体を壊しやすい。言いなりになることは、全てを全面否定するのと同じように、「協力」とは正反対であることに偉い人たちは気が付いていない。われわれの身近なところでも、政治・経済の大局でも、「協力」の言葉は分っても、実際に行うのは想像を超えて難しい。
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