専門家と人々

  
   社会の混乱や行き詰まりを見ていると、つい学者や専門家の出番かな?とおもうことがある。

   ところで、 専門家が1000人集まって経済を論じ教育を論じて政治をしたらよくなるだろうか?

  大橋巨泉氏は 「専門家とは専門以外の事はあまり知らない人のことで、番組の構成上の役割をもつキャラクター」と話していたが、尤もだと納得した。巨泉氏は専門家を専門以外の視点で見た時のユーモラスな役割を期待していたかのようである。

専門家1000人の議論は滑稽な番組には出来ても政治はできないかもしれない。噛み合わない会話としては面白いが、議論は知識の足し算どころか引き算になり議論が終わってみたら知識はマイナス?になっているかもしれない。

 専門家が専門的なある結論を伝えるとき、専門的な知識や用語が必要になる。相手が別の専門家なら伝わる筈がない。

  もともと相互の文法が違っているのだから。

   聖書では律法学者の立つ位置と浅ましさが描かれている。

   専門家はどれだけ集めても全体にはならない。全体を任された専門家はない。

   全体は誰にも平等に個別に与えられた認識ではないかと思うが、社会の仕組みは そうなっていない。

   本来全体認識は個別に与えられているのだが、実際はマスコミの一方的な情報によって世論の名によって洗脳されたかのように

   束ねられている。

   

    

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