世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
新しい時代
政治のⅠ元化と文化の多様化ついて考えてみた。
(現在)は、国家や企業間の経済競争が生み出す政治の多極化(あるいは無極化)と、、競争社会が生み出した文化の画一化が目につく。
しかし、グローバル化の内包する競争の矛盾によって、国境の垣根は低くなり(やがて)政治はⅠ元化に向かい、逆に文化は自然環境多様性やや自然の成り行きとも言える個の確立と合わさって多様化するだろうと思う。
(現在)と(やがて)の距離が分からない上、社会の深層と表層の変化の違いもあるから確認は難しいが、新しい時代への変化とは そう言うものだと思う。
ご都合的な「国益」
「国益」の言葉をよく耳にするが、議論を離れて国益を中心に考えている党派や個人がいるのかと、率直に思う。
ほとんどご都合的な(言葉のあや)で使われているような気がしてならない。
立場を中心にそれが国益につながると考えるのと、国益を中心に己の立場やあり方を考えるのとは、主観的には似ているが同じではない。
空間の全体認識(コア心理)は個人も社会も歴史的な経過をたどるものであって、口にするほど 簡単に広がるものではない。
無意味な意味
経済が瓦解し始めた世界にあって、先のG20も国内の復興を含めた経済対策も期待とは異なった結果になるのではないか?
それでも、大きな歴史の中でホモサピエンスが答えを得るための消去法的な試行錯誤の努力として、大きな意味を持たせたい。
分かりにくい理由
世界も日本も政治・経済が 混乱しているのにその背景は、分かりにくい。何故か?
国の内外を問わず経済対策は極論的には(社会保障と増税の一体改革)が端的に言い表しているように、国民への奉仕を縮小(小さな政府)するか増
税かの選択である。
(経済成長の戦略)もとってつけたように言われるが、状況的に実効性に乏しい。
経過を見ると、これらの政策はいずれも「経済を成長させよう」と一生懸命働き、稼ぎ頭である国の内外にある【財界】からの強い要請に端を発してる。
結局、(政治)と言っても、財界の要請をどう具体化するかの話になるのだが、それも仕方ないのかもしれない。
ただ、政治やマスコミ報道の意味の不明さは政策の(主語・)を抜いたり、民意の陰に(主体)を隠したりしている事に尽きるのではないかとさえ思う。
隠す必要があるだろうか?