世の中の見える世界から見えない世界まで思いっきり。特に、子供、教育、不登校、自閉症等 情緒に関心あり
天まで届け
ウカウカしていられない
人が もっと自然に耳を傾けていたら、今のように目茶苦茶な世界には ならなかっただろうと思う。
それを考えると、教育の問題は大きい。
結局、教育の方向が自然から遠のいていたことであり、今になっては いかに人間が自然を取り戻すかが問われる。
それは 全ての大人や老人の課題であり,今いる子供たちやこれから誕生するだろう子どもたちへの飾り言葉ではではない愛を伴った責任だろう。
その意味で、教育者はもとより学者・宗教者・芸術家、ジャーナリスト‥等 文化に関わる全ての人(関わらない人はいない)の実態を伴った【愛】そのものの在り様が問われている。。 年寄りだからと言って、ウカウカ してはいられない。
人の尊厳
畑で野菜をつくるのは 面白い。
野菜の育ちを見て手入れを考える。手入れが良いと立派でおいしい野菜になる。
基本的には子育てや教育も同じで、学びの伴わない教育はなく 営みとしては一体なんだろう。
シニア向けの「大学」など(老人の学び)が言われるが、【老人の社会的役割】として、学びと教育の一体化した活動が求められている と思う。
単なる教養的な(学び)や先輩面した(教える)ことでは無い。人の尊厳は 死ぬまでで 子供も老いも ない。
言葉使い
子供の頃 兄弟げんかなんかで「バカ!」と言っただけでも、無学だった親からは「言葉使いが悪い」と叱られたもんだ。
今は「悪」だの「壊滅する」の決めつけた言葉やそれに伴った行動が 世界に氾濫しているような感がしてならない。
言葉使いは 礼儀や道徳ばかりでなく、人が生きて行く知恵を意味してるだろうから 気がかりなのだが、リーダーや学者や文化人等と言われる人たちも それを諌めるのを聞いたことが無い。
言葉は 仏教なら「正語」を 聖書は「愛」を 古代ギリシャ哲学は「論理」を説くし、そもそも(言葉)の語源そのものが理性を意味している。
家庭や小学校では 子どもだけでなく親や教師の言葉使いも 無関心ではなかったと思うが…