「シリアナ」や「クラッシュ」と同軸の社会派映画。ただし、今回はアメリカではなく、イスラエルは基本的には正しいという座標軸だ。で、いや、そんなはずはない、というのは空しくなってきた。たいして関係ない、アメリカの中東政策や人種政策の破綻、あるいはイスラエルの戦争に関する映画をなぜ俺は観るのか、観てしまうのか。観る必要があるのかと問われれば、ない。アメリカの苦悩など、アメリカが間違っているのではないかという仮説に立てば、たちどころに苦悩ではなくなるが、そんなことを考えるのもアメリカ人ではない俺にとって、無意味以外の何ものでもない。実際、アメリカもイスラエルもどうだっていいと思っているといえば、いえる。イスラエル擁護のプロパガンダ映画と批判する前に、観なけりゃいいのだ。それで済む。
ひどい場面があった。ミュンヘンオリンピックで「黒い9月」がイスラエル選手団の宿舎を襲い、選手団全員を殺した復讐にイスラエルは暗殺チームを組織し、テロの首謀者たちを殺して回る。その暗殺チームのリーダーがやがて罪の意識に苦しみ、復讐は復讐を呼ぶだけで平和にはほど遠いと空虚感を噛みしめていく。殺し殺される恐怖のなかで、愛する妻とつかの間のセックスの最中に、イスラエル選手団の虐殺の様子がカットバックする。生と死、国家と個、愛と非情の対比に加え、性交の喜びどころか、幽鬼のような底暗い眼で、妻ではなく虚空に虐殺を見ている男の孤絶感。陳腐な対比をひとひねりしたつもりだろうが、ならば不能になるだろうよ。いかにも無理矢理だ。セックスという人の営みさえ、イスラエル国家の存廃と不可分ではない、そういいたいのだ。そんな映画が仰々しく制作されて、極東の片隅で一人の映画好きが休みを半日潰して鑑賞する。アホと後ろからどつかれるべきだ。
ひどい場面があった。ミュンヘンオリンピックで「黒い9月」がイスラエル選手団の宿舎を襲い、選手団全員を殺した復讐にイスラエルは暗殺チームを組織し、テロの首謀者たちを殺して回る。その暗殺チームのリーダーがやがて罪の意識に苦しみ、復讐は復讐を呼ぶだけで平和にはほど遠いと空虚感を噛みしめていく。殺し殺される恐怖のなかで、愛する妻とつかの間のセックスの最中に、イスラエル選手団の虐殺の様子がカットバックする。生と死、国家と個、愛と非情の対比に加え、性交の喜びどころか、幽鬼のような底暗い眼で、妻ではなく虚空に虐殺を見ている男の孤絶感。陳腐な対比をひとひねりしたつもりだろうが、ならば不能になるだろうよ。いかにも無理矢理だ。セックスという人の営みさえ、イスラエル国家の存廃と不可分ではない、そういいたいのだ。そんな映画が仰々しく制作されて、極東の片隅で一人の映画好きが休みを半日潰して鑑賞する。アホと後ろからどつかれるべきだ。