コタツ評論

あなたが観ない映画 あなたが読まない本 あなたが聴かない音楽 あなたの知らないダイアローグ

マルホランド・ドライブ

2007-12-03 18:09:31 | レンタルDVD映画
http://ja.wikipedia.org/wiki/マルホランド・ドライブ

今さらのような旧作だが、「300」に「アポカリプト」、「スパイダーマン 3」などが並ぶ、新作レンタルコーナーに食指が動かないので。

聞きしに優るデビット・リンチの傑作だった。
マルホランド・ドライブに至る迷路の解釈については他に譲るとして、ここでは主演のナオミ・ワッツ賛江ということで。

ナオミ・ワッツに注目さえしていれば、この映画はそれほど難解ではない。あるいは、それほど美形でもなくバストも小さい、凡庸な容姿のナオミ・ワッツによって、この映画はとてもわかりやすくなったといえよう。

フリークス的な登場人物が多いなかで、洗剤のTVCMが似合いそうな色気に乏しいナオミ・ワッツは、かえって異色にみえる。リンチ映画に独特な不安定な人物像に惹かれている人は、ミスキャストではないかと首をひねるくらいだろう。

この映画でナオミ・ワッツはベティ/ダイアンの2役を演じ分けている。「スターでありながら、名優と呼ばれるような女優になりたい」とハリウッドに出てきたベティは、その類い希なる演技力と魅力的な個性によって、たちまち頭角を現す。一方、ベティを夢見た現実のダイアンは、2流女優のまま安アパートでくすぶっている。

俺たちも、たいていこんな夢をみる。そしてそれが夢でしかないことを、俺たち観客もよく知っている。しかし、ダイアンは夢見る頃を過ぎ、無残な現実に晒されても、別の夢を重ねて、ベティの夢を見続けようとする。

実際に下積み女優として苦労したあげくデビューして、当時まだ無名に近かったナオミ・ワッツが、とんとん拍子に認められていく夢のベティを見事に造型している。若く希望に輝くベティだが、どこか類型的で不自然だ。後半にならないとダイアンは登場しないから、前半ではベティ/ナオミが重複して、観客に刷り込まれていくのだ。

ナオミ・ワッツにとっては、可能性に溢れた明朗なベティを問題なく演じるだけでは足りない。ダイアンの願望を背負った過剰さがなくてはならない。それが小鼻から口角にかけてカーブする数本の皺によって、よく表されている。もはや若くもなく無垢ではなくなった女の哀しい滑稽さが、数本の皺というわずかな過剰によって示唆されるのである。

ナオミ・ワッツは、ダイアンにとっての夢のベティと、観客にとっての現実なのかというベティを同時に演じなければならない。となると、どちらにもなりきらないという方法で、いわばベティ・ダッシュを造型しないと、映画の求心力は失われてしまう。観客が、ああこれは誰かの夢なのだと気づいた後でも、映画に入り込ませるにはベティ・ダッシュに観客それぞれの夢に登場するような現実性を持たせなければならない。

ナオミ・ワッツの凡庸な容姿を含めた身体性と、ダイアンと同じ夢を抱いてきた同調性と、しかしダイアンではなくリタでもない現実が、ほかならぬナオミ・ワッツのベティ・ダッシュとして結実したとすれば、ミスキャストどころか、キャスティングの妙というべきだろう。

蛇足だが、ベティはいうまでもなくハリウッドの大スターにして名女優と呼ばれたベティ・デイビスである。ベティが憧憬して愛するスター女優のリタ/カミーラがリタ・ヘイワースを下敷きにしているから当然だが、ハリウッドスターに憧れて女優を目指した平凡な娘が、ベティ・デイビスになる夢が破れ、夢の女リタ・ヘイワースに捨てられたとき、はたしてどうするか。

もう一度、夢を見直すのである。これも俺たちがよく見る夢だ。一つの夢が破れ、二つ目の夢も消え、三つと続いていくとき、俺たちはもう一度、最初の夢から始めたいと思う。もう遅いことは知っているが、そう願う。その夢とは、もしかしたら成功したのではないかという現実の夢ではない。もう一度、あの甘美な夢、それ自体を描き直したいのだ。

夢の中の自分であるベティに戻りたい、というダイアンが狂気の一歩を踏み出すまでの混乱したなかで見る様々な夢は、眠っている間に見る夢だろうが、ダイアンが体験した現実に根ざしている。悪夢のような経験が、悪夢となって戻ってくるのだ。リンチは悪夢のような映像をつくる名手だが、たぶんそれは伏線的な迷路に過ぎないと思える。

ベティとして最初から始めたいという現実の夢は、実はダイアンが本当に見たい夢ではない。ベティとしてリタと出会った最初から始めたいという夢こそ、もう一度描き直したい甘美な夢なのだ。現実から妄想が生まれ、悪夢を形づくるが、悪夢のそこかしこに隠された記憶は本当の夢を、本当に見たい夢を打ち明けているのだ。

夢は夢を見る者によってつくられるのであれば、ベティ/ダイアン/ナオミは俺たちであり、俺たちが真実見たい夢とは、愛の夢なのだとこの映画は語っていると思う。俺たちの夢は現実に破れ、現実は夢を育むことはない。夢か現実か、どちらかだ。だが、夢であり現実となることがある。それが愛なのだといっているようだ。

幾重にも重なった夢と現実をナオミ・ワッツは見事に演じ分けた。そうではなく、七変化の如くではなく、夢と現実のベティ/ダイアンに少しずつナオミ・ワッツがいた。そのまま、アメリカンドリームを夢みて消えていった大多数の「負け犬」の記号にふさわしく、ナオミ・ワッツがベティ/ダイアンを演じていた、ということだろう。

当初は、TVシリーズとして企画されたようで、ジュリア・ロバーツやニコール・キッドマンといった大物女優がベティ/ダイアンを演ずる可能性はなかっただろうが、もし演っていたとしたらこれほどのスケールの映画にはならず、せいぜいが演技開眼した女優映画になっていたと思う。

この映画はナオミ・ワッツでなければならない。ナオミ・ワッツはその存在感の不足によって、夢と現実の狭間に生きて死ぬ、「平凡な娘たち」の存在感を最大限に現出させた。たまに、こうした演出や演技を超えた奇跡を見せてくれるから、やはり映画はたまらない。

ナオミ・ワッツはベティがオーデションを受ける場面で、迫真的だが凡庸な演技と想像力に溢れた演技の2通りを続けて演じて分けてみせる。ベティ/ダイアンの夢に、映画の夢が重なっているわけだ。つまり、まったく違う映画で異なった人物を演じながら、つねにその人であることを観客は意識してしまうのがスターだとすれば、スターではないナオミ・ワッツがこの映画の中でスターになるのだ。

デビット・リンチもナオミ・ワッツも、明らかにこの映画の夢を意識している。ベティ/ダイアンの夢を追うだけでなく、自分たちに共通の夢を、そこで物語を損なわず、物語に感応したかのように、自分たちの「白鳥の歌」を歌っているのだ。すべての科白と小道具に伏線を張り、意味を巡らしながら、同時にその物語をも包括した何かを提示する、もっと大きな物語の足場を築いている。

わずか2時間余で、これほど大きな謎を示した映画はやはり奇跡的といえるだろう。