コタツ評論

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セル

2007-12-10 00:35:23 | 新刊本
スティーブン・キングにしてはいまいち。
ただし、人間を人間であらしめている核心とは、「凶暴さ」であるというところに感心した。キングくらいになれば、取材の代行はもちろん、小説中に登場するさまざまな知見について、その裏づけはもちろん、最新の研究成果を整理して提供するリサーチャーを雇っているはず。当然、キングの私見ではないはずだが、キングの説得力にかかれば、性善説や性悪説を軽々越えてしまう。

「携帯人」は集合意識なのに、「ラゲディ・マン」一人(?)を殺すと、携帯人が壊滅してしまうのは納得できない。人民蜂起を直截に描いた「ゾンビ映画」に、携帯人の同時発狂が似て非なるのは、そこだろう。あるいは、「911」以降、アメリカンデモクラシーへの深い疑義が、キングにあるのかもしれない。それが失われてしまったという無念では、もちろんない。繰り返される「ノーフォ(携帯電話圏外)」である「カシュワク」というネイティブ・アメリカン由来の「希望の地」が、実はそうではなかったことに明らかだ。

キングらしくないという感想は、携帯電話とパルス、ラジカセと名曲に対する最低の編曲、テレパスと集合意識など、現代アメリカの文明と文化を大きな構図で捉えることに性急な割に、肉感的な恐怖を描くのに不熱心に思えるからだ。人が恐怖を感じるデティールを書くことより、もっと先に横たわる本質的な人間性(人類性)を書きたくなっている気がする。もちろん、これまでもキングはただの「怖がらせ屋」ではなかった。しかし、ここまで構図を前に押し出すことはなかったように思うのだ。

興味本位に訴える叙述を減らせば、小説はおもしろくなくなる。ハラハラドキドキの娯楽性を排しても、旺盛なサービス精神を身上とするキングにして、悩めるアメリカの全体像を示し、そこに人類の透視図を描いてみせたかった、そんな切迫した思いを感じる。いずれ、「911以降のアメリカ文化の変容」といった研究がなされるだろう。俺が読者である少数の作家たちも、「911」以降、明らかに作風が変わっている。

最近、アメリカ衰退論を散見するが、それはアメリカが変化しないことを前提として導き出した結論に思える。たしかに、近年のアメリカの外交政策は、変化を嫌い反動の傾向を強めているようにみえる。「セル(携帯人)」と「ノーマル(正常人)」の最終戦争を企図する「ラゲディ・マン」のように振る舞っている。だが、その一方で、「911」以降、キングのこの最新小説によっても伺い知れるように、アメリカとは何か、と本気で考え始めているような気がする。

つまり、「911」によって、カタストロフはすでに起きてしまった。「ダイハード」のジョン・マクレーン刑事もこの大惨事を防げなかった。運よく生き残った人々も、もはや以前と同じ人生を生き続けることはできない。キングのこの物語はそうした最終戦争後の世界と人間を、さらに未来から省みて、叙事詩風に書き残したかのようだ。

ただし、キングはけっして高尚ぶらない。再起動・インストール・バグ・システム保存とPCから比喩を用いながら、「携帯人」という新人類の超能力と愚昧さの共存を描き出して、痛烈な現代社会批判を加えている。そして、新人類の「携帯人」といえども、人間を人間としてあらしめている核心の「凶暴さ」を持ち、やがて共喰いをはじめて破綻することが示唆されている。

ではシステム保存とは何か。人間の核心である「凶暴さ」を抑え込む知性は、なぜ保存されるのか。かように、この小説にはいくつもの謎と鍵が伏せられ、対比の構図や登場人物、小道具には、いくつもの読み方ができる。そうした小説はきわめて稀だ。したがって、冒頭の感想を書き直さなければならない。

キングの恐怖小説としては、いまいち。キングの小説の中でも、傑作と。