もう何回目なのか覚えていないくらい、度々ブログのタイトルを変えてきた。それほど、何のために書いているのかわからないというわけだが、「なにが粋かよ」(@斎藤龍鳳)の語呂合わせにも飽きてきた。それに、「逝ってよし!」とはやはり名科白だ。この軍隊言葉が2ちゃんたちから淀みなく出てきたことに、やはり驚くべきだろう。ついこの間まで、「戦後」だったからに違いない。
次は、「いいふりこき」という北海道弁をタイトルにする。「いいふりこきのがんべたかり」で完成型だが、「がんべたかり」が身も蓋もない。「ええっこしい」や「銀流し」といった都会的な揶揄は欠片もないところが、いかにも北海道らしい。誰か、Wikipediaの「吉兆」の項に、この完成型を加筆してくれないものか。もちろん、「さすが吉兆!」と賛辞を呈していた人へ贈る言葉として。
ま、とりあえず「考えた振り」をしたがる俺には、似合っていると思う。
以前から、「ふり(振り)」という言葉が好きだ。「振る舞い」は美しい響きの言葉である。「大盤振る舞い」や「振る舞い酒」には、ご馳走する側される側の潔い明るさがあって笑みが浮かぶ。『アメリカンダンスアイドル』を観ていると、ダンスにおける振り付けとは、「棒振り」と呼ばれるオーケストラの指揮者と同じくらい、大変な創造を軽々とやってみせる仕事なのだなと感心する。ちなみに落語で「棒振り(ぼてふり)」といえば、天秤棒で商売する魚屋のことだし、「棒振り剣術」とは実戦はからきしの侍を指す。振りとは営みに近いらしい。
野球には、「振り逃げ」という含蓄のある技(?)もある。打者が三振すれば普通はアウトだが、三振したボールを捕手が受け損なった場合、打者は1塁へ走ることができる。アウトになってがっくり肩を落とした打者、仕止めたとほくそ笑む投手と捕手、その一瞬後にあわてるところが可笑しい。おまけに投手も一塁カバーに走らなくてはならないから、息詰まる「真剣勝負」が一転してドタバタ喜劇になるのだ。
「棒に振る」というのは、案外未練がましくない感じがする。この棒の語源はなんだろう。一生を棒に振るなんていったり、いわれたりするのは、よほど前途洋々の人に限られるだろう。強い自負がありながら、それを捨て去る機会を待っていて、そこで自分の覚悟を試そうとしているようで、なかなかに男らしい。「棒ほど願って針ほど叶う」と対になっている気がする。そういえば、『いのちぼうにふろう』という山本周五郎作品の映画化があった。
「振られる」と受け身になると、これは悲しい。でも、どこかそれを楽しんでいるところもある。「振る」よりもずっと、心に何かが残る経験だと思う。また、「思い思われ振り振られ」とお互い様でもある。「人の振りみて我が振り直せ」という戒めもある。振りとは癖のことでもあるようだ。「見て見ない振り」という振る舞いは、実は奥ゆかしい。俺がつまらないことを書いて、恥ずかしがっているとき、あなたもそうしてください。
次は、「いいふりこき」という北海道弁をタイトルにする。「いいふりこきのがんべたかり」で完成型だが、「がんべたかり」が身も蓋もない。「ええっこしい」や「銀流し」といった都会的な揶揄は欠片もないところが、いかにも北海道らしい。誰か、Wikipediaの「吉兆」の項に、この完成型を加筆してくれないものか。もちろん、「さすが吉兆!」と賛辞を呈していた人へ贈る言葉として。
ま、とりあえず「考えた振り」をしたがる俺には、似合っていると思う。
以前から、「ふり(振り)」という言葉が好きだ。「振る舞い」は美しい響きの言葉である。「大盤振る舞い」や「振る舞い酒」には、ご馳走する側される側の潔い明るさがあって笑みが浮かぶ。『アメリカンダンスアイドル』を観ていると、ダンスにおける振り付けとは、「棒振り」と呼ばれるオーケストラの指揮者と同じくらい、大変な創造を軽々とやってみせる仕事なのだなと感心する。ちなみに落語で「棒振り(ぼてふり)」といえば、天秤棒で商売する魚屋のことだし、「棒振り剣術」とは実戦はからきしの侍を指す。振りとは営みに近いらしい。
野球には、「振り逃げ」という含蓄のある技(?)もある。打者が三振すれば普通はアウトだが、三振したボールを捕手が受け損なった場合、打者は1塁へ走ることができる。アウトになってがっくり肩を落とした打者、仕止めたとほくそ笑む投手と捕手、その一瞬後にあわてるところが可笑しい。おまけに投手も一塁カバーに走らなくてはならないから、息詰まる「真剣勝負」が一転してドタバタ喜劇になるのだ。
「棒に振る」というのは、案外未練がましくない感じがする。この棒の語源はなんだろう。一生を棒に振るなんていったり、いわれたりするのは、よほど前途洋々の人に限られるだろう。強い自負がありながら、それを捨て去る機会を待っていて、そこで自分の覚悟を試そうとしているようで、なかなかに男らしい。「棒ほど願って針ほど叶う」と対になっている気がする。そういえば、『いのちぼうにふろう』という山本周五郎作品の映画化があった。
「振られる」と受け身になると、これは悲しい。でも、どこかそれを楽しんでいるところもある。「振る」よりもずっと、心に何かが残る経験だと思う。また、「思い思われ振り振られ」とお互い様でもある。「人の振りみて我が振り直せ」という戒めもある。振りとは癖のことでもあるようだ。「見て見ない振り」という振る舞いは、実は奥ゆかしい。俺がつまらないことを書いて、恥ずかしがっているとき、あなたもそうしてください。