DVDレンタルが出たときに観ているのだが、CATVで放映したのも再見してしまった。実は、恋愛映画がきらいではない。
「名声なんて空しいものよ。愛する人の前に立ち、愛されたいと願っている、私はただの女なの」
世界的な人気女優・アナ・スコット(ジュリア・ロバーツ)がロンドン郊外の閑静な町ノッティングヒルの小さな書店の店先で、店主のウイリアム(ヒュー・グラント)に愛を告白するクライマックスの言葉だ。
このアナの言葉のなかで大事なのは、「前に立ち」である。この映画は「立ち」の映画といえる。
最初にウイリアムの書店に立ち寄ったときのアナは、黒革のジャケットに黒の大きなベレー帽にサングラスという、レトロ風の少し気取った恰好だ。トルコに関する旅行書を買い求め、カウンタの前に立ったときは、有名女優であることを隠すために、少し猫背で顔を俯けていた。
愛を告白する場面の彼女は、棒のように突っ立ている。
女優やモデルは、無防備にカメラの真正面には立たない。カメラアングルや照明に合わせて、美しく映えるよう顔の角度を変えるか、立体的に見せるために身体のほうを捻る。自らの顔や肢体が、どの角度からはどう見えるかを、職業的な訓練によって熟知しているからだ。ところが、アナは上官に報告する兵士のように、少し歩幅を広げてウィリアムの真正面に立つ。
この映画は、ジュリア・ロバーツの美しい立ち姿を愛でるのではなく、少し不格好な立ち姿を味わうためにある。同様に、役柄と重なる人気女優ジュリア・ロバーツの華麗なファッションを楽しむのではなく、その地味な装いに微笑む映画である。
はじめてのデート。ウィリアムの妹の誕生パーティに向かうとき、アナはフェミニンなシースルーのブラウス(たぶんシルク)にジーンズを合わせている。彼氏の親族に初めて会うとき、反発を買わないよう、無難だがちょっとしたお洒落を心がけたというファッションだ。
愛の告白をするときには、ブルーのニットアンサンブルに紺のスカート、ビーチサンダルに近いサンダル履きという普段着である。やはりここでも、無防備に立ったまま、アナは動かず、ただ正面からウイリアムをひたと見つめている。
そんな、ありのままの自分を見て欲しいというアナの願いを、観客には手にとるようにわかるのに、鈍感なウィリアムはなかなか気づかない。
アナのほうからキスをし、デートに誘い、ホテルの部屋にも来て、といっているのに、ウィリアムは自分の気持ちにばかりこだわって、素直で可愛いアナの真っ直ぐな気持ちを汲み取ろうとしない。小さい頃のあだ名は「弱虫」で、妻に駆け落ちされた冴えない書店主のウィリアムだが、アナにとっては「王子様」なのに。
一方、ウィリアムにとっては、アナこそが王子様である。
自分の趣味を生かした旅行書専門の小さな書店を営み、妹や気心の知れた友人たちと穏やかな暮らしに満足しているウィリアムは、姿は男であってもその生き方は少女である。小さくても自分のお店を持ちたい、女の子の変わらぬ夢である。少女向けの小説やマンガの定番は、ヘタレなウィリアムのような女の子が、絵のように美しいアナのような王子様から見初められ、押しまくられるストーリーである。
俺を知る人は気味悪がるだろうが、俺の内にもそんな少女趣味がある。男にも娶られたいという奇怪な欲望がある。恋愛を扱った小説や映画を好む男がいるのは、それだからだろう。
ホテルリッツのカフェ・レストランでお茶を飲む二人。それと知らず、近くの席では男たちがアナ・スコットの下卑た品定めをはじめる。「あれは、すぐやらせる女」だの、「表も裏も汚れた女」だの、「女優という言葉は地球上の50%の地域では娼婦という意味」などなどだ。堪えきれず立ち上がったウィリアムが、男たちのテーブルに行き注意するものの、尻すぼみになってしまう。去りかけた二人。思い直してツカツカと引き返し、ぴしゃりと言い返してやり込めたのは、アナだった。男女が逆転している。
このツカツカの場面でも、ジュリア・ロバーツは、1本の線上に脚を伸ばし、腰を捻るうなモデル歩きをしない。ハイヒールを履いていながら、2本の線上に両脚を平行させて移動するような、セクシーさに欠ける実際的な歩き方をする。
ちなみに、こういう下卑た話は、たいていの男ならした覚えがあるだろう。たいていの女に相手にされていないくせに、身の程知らずにも男はこうした女の品定めが大好きだ。もちろん、そんなことをしない、そんな場には最初から同席しない高潔な男も少なくないが、残念ながら多くの男たちは、この男たちと同様に下司である。
ただ、下司男にも慎みを知る者はいて、他人の耳目に入るホテルのカフェレストランなどでは、この手の話に興ずることはしない。するなら、他人の耳目を引かない誰かの部屋とか、ひと気のない夜の公園などだろう。ひと目もはばからず、スターや有名人の悪口に興ずるのは、これはおばさんたちではないだろうか。ここでも男女が逆転している。
もちろん、この映画は、かのオードリー・ヘップバーンとグレゴリー・ペックの名作「ローマの休日」を下敷きにしている。かつて女性たちはこぞってオードリー・ヘップバーンに憧れたが、彼女らにとって成熟した大人の男であるグレゴリー・ペックは背景のように無関係だった。
「ノッティングヒルの恋人」では、アナはもちろん、ウィリアムにも女の子の夢が投影している。そのあたりが、「ローマの休日」との異同だろう。恋愛映画や恋愛小説とは、女性が女性に感情移入する物語である。ただ、「ノッティングヒルの恋人」では、男性であるウィリアムも「女性」なのである。男女が逆転しているのではなく、女しか出てこない映画なのかも知れない。
「ローマの休日」と同じく、大胆にも記者会見の場で愛が告げられる。
「ローマの休日」では、ローマに寄せて王女としては大胆だが、一人の女としては控えめな愛の告白に留めて悲恋に終わるが、「ノッティングヒルの恋人」では、アナは晴れ晴れと愛を受け入れ、ウィリアムがシンデレラになるハッピーエンドで幕が閉じられる。「ローマの休日」の王女は愛をあきらめたが、アナは自らの努力で、富と名声に加え愛を勝ち得た。現代女性にヒットしたのも当然であるが、その点でははるかに下司な「プリティ・ウーマン」もヒットしているから、やはり女はよくわからない。
「名声なんて空しいものよ。愛する人の前に立ち、愛されたいと願っている、私はただの女なの」
世界的な人気女優・アナ・スコット(ジュリア・ロバーツ)がロンドン郊外の閑静な町ノッティングヒルの小さな書店の店先で、店主のウイリアム(ヒュー・グラント)に愛を告白するクライマックスの言葉だ。
このアナの言葉のなかで大事なのは、「前に立ち」である。この映画は「立ち」の映画といえる。
最初にウイリアムの書店に立ち寄ったときのアナは、黒革のジャケットに黒の大きなベレー帽にサングラスという、レトロ風の少し気取った恰好だ。トルコに関する旅行書を買い求め、カウンタの前に立ったときは、有名女優であることを隠すために、少し猫背で顔を俯けていた。
愛を告白する場面の彼女は、棒のように突っ立ている。
女優やモデルは、無防備にカメラの真正面には立たない。カメラアングルや照明に合わせて、美しく映えるよう顔の角度を変えるか、立体的に見せるために身体のほうを捻る。自らの顔や肢体が、どの角度からはどう見えるかを、職業的な訓練によって熟知しているからだ。ところが、アナは上官に報告する兵士のように、少し歩幅を広げてウィリアムの真正面に立つ。
この映画は、ジュリア・ロバーツの美しい立ち姿を愛でるのではなく、少し不格好な立ち姿を味わうためにある。同様に、役柄と重なる人気女優ジュリア・ロバーツの華麗なファッションを楽しむのではなく、その地味な装いに微笑む映画である。
はじめてのデート。ウィリアムの妹の誕生パーティに向かうとき、アナはフェミニンなシースルーのブラウス(たぶんシルク)にジーンズを合わせている。彼氏の親族に初めて会うとき、反発を買わないよう、無難だがちょっとしたお洒落を心がけたというファッションだ。
愛の告白をするときには、ブルーのニットアンサンブルに紺のスカート、ビーチサンダルに近いサンダル履きという普段着である。やはりここでも、無防備に立ったまま、アナは動かず、ただ正面からウイリアムをひたと見つめている。
そんな、ありのままの自分を見て欲しいというアナの願いを、観客には手にとるようにわかるのに、鈍感なウィリアムはなかなか気づかない。
アナのほうからキスをし、デートに誘い、ホテルの部屋にも来て、といっているのに、ウィリアムは自分の気持ちにばかりこだわって、素直で可愛いアナの真っ直ぐな気持ちを汲み取ろうとしない。小さい頃のあだ名は「弱虫」で、妻に駆け落ちされた冴えない書店主のウィリアムだが、アナにとっては「王子様」なのに。
一方、ウィリアムにとっては、アナこそが王子様である。
自分の趣味を生かした旅行書専門の小さな書店を営み、妹や気心の知れた友人たちと穏やかな暮らしに満足しているウィリアムは、姿は男であってもその生き方は少女である。小さくても自分のお店を持ちたい、女の子の変わらぬ夢である。少女向けの小説やマンガの定番は、ヘタレなウィリアムのような女の子が、絵のように美しいアナのような王子様から見初められ、押しまくられるストーリーである。
俺を知る人は気味悪がるだろうが、俺の内にもそんな少女趣味がある。男にも娶られたいという奇怪な欲望がある。恋愛を扱った小説や映画を好む男がいるのは、それだからだろう。
ホテルリッツのカフェ・レストランでお茶を飲む二人。それと知らず、近くの席では男たちがアナ・スコットの下卑た品定めをはじめる。「あれは、すぐやらせる女」だの、「表も裏も汚れた女」だの、「女優という言葉は地球上の50%の地域では娼婦という意味」などなどだ。堪えきれず立ち上がったウィリアムが、男たちのテーブルに行き注意するものの、尻すぼみになってしまう。去りかけた二人。思い直してツカツカと引き返し、ぴしゃりと言い返してやり込めたのは、アナだった。男女が逆転している。
このツカツカの場面でも、ジュリア・ロバーツは、1本の線上に脚を伸ばし、腰を捻るうなモデル歩きをしない。ハイヒールを履いていながら、2本の線上に両脚を平行させて移動するような、セクシーさに欠ける実際的な歩き方をする。
ちなみに、こういう下卑た話は、たいていの男ならした覚えがあるだろう。たいていの女に相手にされていないくせに、身の程知らずにも男はこうした女の品定めが大好きだ。もちろん、そんなことをしない、そんな場には最初から同席しない高潔な男も少なくないが、残念ながら多くの男たちは、この男たちと同様に下司である。
ただ、下司男にも慎みを知る者はいて、他人の耳目に入るホテルのカフェレストランなどでは、この手の話に興ずることはしない。するなら、他人の耳目を引かない誰かの部屋とか、ひと気のない夜の公園などだろう。ひと目もはばからず、スターや有名人の悪口に興ずるのは、これはおばさんたちではないだろうか。ここでも男女が逆転している。
もちろん、この映画は、かのオードリー・ヘップバーンとグレゴリー・ペックの名作「ローマの休日」を下敷きにしている。かつて女性たちはこぞってオードリー・ヘップバーンに憧れたが、彼女らにとって成熟した大人の男であるグレゴリー・ペックは背景のように無関係だった。
「ノッティングヒルの恋人」では、アナはもちろん、ウィリアムにも女の子の夢が投影している。そのあたりが、「ローマの休日」との異同だろう。恋愛映画や恋愛小説とは、女性が女性に感情移入する物語である。ただ、「ノッティングヒルの恋人」では、男性であるウィリアムも「女性」なのである。男女が逆転しているのではなく、女しか出てこない映画なのかも知れない。
「ローマの休日」と同じく、大胆にも記者会見の場で愛が告げられる。
「ローマの休日」では、ローマに寄せて王女としては大胆だが、一人の女としては控えめな愛の告白に留めて悲恋に終わるが、「ノッティングヒルの恋人」では、アナは晴れ晴れと愛を受け入れ、ウィリアムがシンデレラになるハッピーエンドで幕が閉じられる。「ローマの休日」の王女は愛をあきらめたが、アナは自らの努力で、富と名声に加え愛を勝ち得た。現代女性にヒットしたのも当然であるが、その点でははるかに下司な「プリティ・ウーマン」もヒットしているから、やはり女はよくわからない。