探していた本をようやく見つけた。
わたしの外国語学習法(ロンブ・カトー 米原 万里訳 ちくま学芸文庫)
まずは、表紙裏の著者紹介から。
ロンブ・カトー(Lomb Kato)
ハンガリー南部ベーチ市生まれ。大学で物理と化学を専攻。21歳の時、この2つの学科で学士号を取得。しかし1930年代の不況のもとで、自己の専門を生かす職を得られず、外国語教師となる決意をする。当時彼女の知っていたたった2つの外国語であるラテン語もフランス語も教師たちは街にあふれている有様で、稼げる外国語(まずは英語)を身につけるために、彼女は独自の学習法を開発する。この(くわしくは本書参照)学習法のおかげで、彼女は5カ国語の同時通訳者、10カ国語の通訳者、16カ国語の翻訳者となる。90歳を過ぎた今も、新しい言語の習得に挑戦中。
英語学習法の類いの本を読むのが、私の数少ない趣味のひとつである。これらの本は、たいてい、「英語ができない」のは学びかたが間違っていたのであり、それは間違った教えかたをされたからだと説明する。また、英語(外国語)を学ぶためには、その目的が明確であるべきだとする。いいかげんな目的なら学ぶ必要はない、と突き放す本さえある。
いちいちごもっともなのだが、ではなぜ私は、英語学習法の本を読み続けるのだろう? いまさら学び直すには遅すぎるのに。その疑問に答えてくれる本が見つからないのである。
たしかに、私には英語を学ぶ明確な目的や必要はない。「英語ができない」のは結果というより、「英語ができる必要はない」という原因の裏返しなのかもしれない。
ロンブ・カトーは、ハンガリー語を母国語として、露・英・仏・独・ハンガリーの同時通訳をし、半日準備すれば、伊・西・日・中・ポーランドの通訳ができ、残る6か国語は文芸作品や専門書の翻訳「だけ」だそうだ。
スッポンから見上げた月のような隔絶した天才としか思えないが、ロンブ・カトーは、「誰にでもできる」「子どもより大人こそ学べる」と自らの「外国語学習者」の経験から断じている。
もちろん、ひとりよがりではなく、これまでの外国語学習法や最近の認知科学などの研究成果を踏まえてのことだが、「こうして私はできた」という「できかた」の工夫はあくまで彼女自身でつかんだものである。「学びかた」を学んでから、学んだのではなかったわけだ。
また、「外国語を学ぶ動機」については、外国語の専門家たちが集まってドイツで1年間にわたり会議が開かれたが、答えは出なかったと紹介している。学びの目的は明確に、とは自明ではなかったのだ。
よかった。英語(外国語)に限らず、何かを学びたいと思ったとき、その目的や利益が学ぶ意欲につながるという言説には、どこか納得できなかった。
資格や学位を取得して、より有利な職業に就いたり待遇を得たいというのは、学習の効果(結果)の説明としては成り立っても、学習の動機(原因)については、何も語っていないと思う。また、上昇志向と向上心は違うはずだし、昭和天皇が粘菌の生態を研究するとき、その向上心すら意識されないだろう。
学びたいことがよくわからず、それが自分にとってどう役立つかわからないのに、人は学びたいと思い、学ぼうとする。それはなぜか。やはり、よくわからない。
私たちが外国語を学ぶ素敵な理由を、ロンブ・カトーは明確に提示している。
私たちが外国語を学習するのは、外国語こそが、たとえ下手に身につけても決して無駄に終わらぬ唯一のものだからです。
アマチュアのバイオリン弾きやアマチュアの医師などを思い浮かべたとき、
アマチュアが社会的利益をもたらし得るのは、わたしの考えでは、外国語においてのみです。
楽しい考え方ですね。16か国語を身につけた、つまり16もの異文化に深く接した人が「唯一」と「おいてのみ」と2回も繰り返すのです。スッポンにも何となく月が一段と近づき、大きくなったように見えます。
では、ロンブ・カトーが開発した外国語学習法とは何か? その外国語で書かれた本を読むだけ。条件は、その人が興味を持つ分野の読書であること。
なるほど、これまでの類書にも同様なことは書いてある。ただ、違うようなのは、あれもこれものひとつではなく、ロンブ・カトーさんは、「これだけ」らしい(泥中のスッポン、ますます首を伸ばす。続く、かもしれない)。
(敬称略)