「舟を編む」もよかったけど、俺は「横道世之介」がよかったな。
長崎の小さな港町から、大学入学のために上京して来るのね、横道世之介は。時代は80年代。アパートに着くまで東京を歩くんだけど、途中アイドルグループのイベントに見入ったりする。このシーンが妙に長くてね、この映画ダメかなって一瞬思ったね。そのガールズグループもひどくて、手足が太い短い、園児のお遊戯みたいなフリでね。でも、一曲まるまる世之介はつきあうんだ。
どうしてあんなに尺が長いのか、ちょっと考えてみるとね。おっと、ごめん。「尺が長い」って業界用語を使ったりして。昔はね、フイルムは尺で測ったの、尺貫法を知らないかな。俺も大人になってから知ったんだけどね。でね、世之介は律儀なやつだから、ちょっと観て、行き過ぎるってのができない。あるいはね、田舎者だから、知らないアイドルグループだけど、そこらで歌っていることに、さすが東京だな、その東京に俺もいるんだって、なんか嬉しくて見入っていたのかもしれない。そういう世之介視線の映画なんだな。目線? いや、目線は世之介だけが一方的に見ていることだけど、視線は見て見られている多方面からなのね。
で、入学した大学は法政大学、市ヶ谷キャンパスね。どーんと大学名が出るからタイアップかもしれない。大学構内のシーンは多い。大学生の青春映画? どうかなあ。ちょっと違う気がする。青春ってったら、高校まででしょ。大学はさ、モラトリアム、執行猶予期間じゃあるが、もう青春じゃないよな、昔っから。今はさ、今はもっとそうでしょ?
以前、宮本輝の「青が散る」って、やっぱり大学生の小説を紹介したっけ。で、これはユニークな大学小説なんだって続編を書くつもりが投げ出したままだけど、70年前後の大阪・茨木市の追手門学院大学がモデルだったな。大学創立1年目で、自分たちでテニス部を創ったはいいけれどコートもなくて、空き地を造成して、「重いコンダラー」を引いてコートを固めるところから学生がやらなくちゃならない。あれは律儀な大学論の含意だったな。
日本だと、大学といえば東大、私立なら早慶が代表のようにいわれるが、そりゃ全然違うぜっていいたい。「ぜ」ってのは吉本隆明がたまに口にした「ぜ」なんだけど、知らないよな。じゃ、聞き苦しいほどスハスハ息継ぎする新珠三千代の声真似とか、喉をチョップでトントン叩きながら喋ると林家正蔵になるとかも知らないよな、まあいいや。いや、今のじゃなくて先代の正蔵、仙台じゃなくて、困ったな、先の代って書くの。未来って? いや、未来は先(さき)、先(せん)は過去なの、関西じゃ、「先(せん)に」って云うと、「ちょっと前」ってことになる。
それはともかく、大学はね、まず私立じゃなきゃいけない。これで東大以下、国公立はぜんぶ外れる。大学の始まりや歴史をみれば、これは決まっていること。異論は認められないよ、世界中どこでも。次に、さっきの吉本隆明風に日本的小状況でいえば、しょうじょうきょうってわからない? 小さな上京じゃなくて、少ない上京でもなくてえ、いや、いや、待てよ、そうともいえるな、うんいいね、それでいこう。日本もね、明治時代に世界史に上京したわけだ。そのつもりだったが、じつは小さな少ない上京だったんだな、これが。大学もそのひとつ。
んで、日本にはオックスフォードもケンブリッジもソルボンヌもフンボルトもハーバードもエールもUCLAもできなくて、モスクワ大学ができたと。でたらめだなこれじゃ。ずーっと時代は下がって、法政大学のMARCHとか、偏差値でいうと中から下あたりの総合大学、サラリーマン養成学部ってのがたくさんできた。これはわかるよね。世之介が入ったのも経営学部だね。経営者なんてなりそうにも、なれそうもないのにね。でも、日本の大学らしい大学ってのはこれ、これが標準なの、小状況なの。うんとそれ以上も、あまりにそれ以下ってのも違うんだな。よくもわるくもごく普通の大学ね。
学生はあまり勉強しないし、もっぱら友だちと喋ったり、サークルしたり、バイトしたり、将来のことなんてほとんど考えていないし、なんとなくぼんやりと毎日を過ごしている。横道世之介もそんな大学生なんだな。いまはもうそんなじゃないか。気の毒にな。日本以外でこの普通を説明するのは難しいね。日本でなら、フツーじゃん、で通じる。で、いきなり結論をいうと、普通ってのは、ごめん聞き飽きた、普通って? 何回云ったかね。つまり、普通って成熟するってことなんだ。普通イコール成熟する。するっていう遂行的なところがポイント。
たぶん、日本人だけなんだ、普通になろう、普通でいこう、普通でいいやって、思い決めるのは。青少年はさ、もっとこう上を目指すっていうか、下や斜めに行ってそこで上をとるとか、ほら不良や裏道みたいにさ、矢印のベクトルが傾いているわけ、普通。でもね、横道世之介はね、そういうことはあまり思わない。そこそこでいいやって思う。それは覇気がないことだし、資質や能力に欠けるってことでもあるが、非選択的な選択でもあるんだな。また、吉本隆明風にいえば、「重層的な非決定」といってもいい。ほんとはいけないはずだが、この際どうでもいい。悪いけど、急ぐ。
「成熟するぞ!」って叫んで歩いたら、普通じゃない人になるから、遂行的といっても、遂行的というのは、ま、やり遂げるくらいなことだけど、自分一人で何とかなるもんじゃない、成熟するってのは。えっ、熟女? どこからそんな言葉を知ったの? 熟女ねえ、ま、熟女でもいいけど、熟女もね、人からそう云われたり、思われたりするもんだよね。成熟も同じ。ただ、成熟の場合は、「あいつは成熟したやつだ」とか「成熟男」とかはいわない。かんたんに、「いいやつだ」、そう云う。ほかに適当な云葉がないからね。面と向かっては云わないけどね。で、「いいやつ」とどこかで云われているやつは、云ったやつを「いいやつ」と思っている。そこが大事。
人間は、その字の通り、人の間を、関係を生きている。それぞれ関係する人たちにも、間があるし、また関係がある。ということは、人は間(あいだ)の間(あいだ)のアイダ設計を生きている。ぜんぜん、わからない? 俺もよくはわからない。でもね、そういう人の間、人々との間に、「いいやつだ」という相互承認が生まれたとき、それを仮に成熟すると呼ぼうと俺は思ったわけ。そうそう、ここだけの話。よそで云うと、はあ?って顔されるだろうな。さ、そろそろお開きにしますか、寅さんだね、まったく。
ま、次のときまで、これだけは覚えておいてね。「普通」も「成熟する」も「いいやつ」も、参照するモデルはないってのが共通しているってこと。これが「普通」だって人が眼前にいるわけではないし、誰かが「いいやつだ」って保証してくれるもんでもない。「成熟する」ってこういうことなんだという本もない。でも、「普通すぎる」横道世之介に接したおかげで、まわりの人間はそれを知る。でも、そのことを意識はしていない。だから、世之介(高良健吾)の彼女の祥子(吉高由里子)も、ちょっと憧れた千春(伊藤歩)も、友人の倉持(池松壮亮)や加藤(綾野剛)も、ある事件があった12年後に、思い出すという形で気づく。そういう回想の映画なんだな。
はじめに云ったように、この映画の視線は、世之介の、世之介へ、そして世界から、見る見られる視線なんだ。いやあ、全然ややこしくはないよ。映画の回想シーンだけが、これらを同時にできるんだが、俺らはいつも当たり前のように観ているし。ただし、ここに世之介の回想だけは入っていないんだ。
THE BLUE HEARTS 人にやさしく
(敬称略)