コタツ評論

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今日の明言 02

2018-05-22 23:42:00 | ノンジャンル
反則行為の日大選手 会見始まる
http://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20180522/0012067.html

記者会見で、この選手は「試合前日の練習後、コーチから、お前をどうしたら試合に出せるか監督に聞いたら、相手のクオーターバックの選手をワンプレー目でつぶせば出してやると言われた。『クオーターバックの選手をつぶしに行くので使って下さい』と監督に言いに行け。相手がケガをして秋の試合に出られなかったらこっちの得だろうと言われた」と試合前日のやり取りについて説明しました。

この選手は記者会見で、反則行為のあった試合前の内田前監督とのやりとりを明らかにし、「私は監督に対して直接『相手のクオーターバックを潰しに行くので使って下さい』と伝えました。監督からは『やらなきゃ意味ないよ』と言われました」と話しました。

記者会見でこの選手は、「試合当日、コーチに『クオーターバックの選手に突っ込みますよ』と確認したら『思いきり行ってこい』と言われた。さらに、試合前の整列のときもコーチが近づいてきて、『できませんでしたじゃ、すまされないぞ。わかってるな』と念を押された」と説明しました。


じつは私、高校のとき、数か月アメフト部に所属したことがある。3年でキャプテンだったクオーターバックの先輩は、17歳にして前歯以外のほとんどが銀歯だった。笑うとそれがギラリと光って格好よかった。戦術を選び、実戦の口火を切るクオーターバックはそれほど狙われる危険なポジションなのだ。したがって、「あのクオーターバックを潰せ」とは、チームの闘志に点火するためによく言い交わされる言葉であり、ことさら激しい言葉遣いというわけではない。

しかし、日大のコーチの「潰せ」はクオーターバックにシーズンを棒に振るほどの重傷を負わせよと選手に指示している。もちろん、明言はしていない。あくまでも、選手の自主自発にまかせ、自らはアドバイスをしたように装っている。先の日大から関西学院への回答文にあったように、「指導者の指示や指導と選手の受け取り方」の「乖離」である。

明言はせずに、じつは強要し、後になって自主自発であったと責任を回避する。かつての特攻攻撃の場合にも、上官と特攻隊員に少なからずみられたことだ。また、一度でもサラリーマンの経験がある人なら、上役から不法不当な要求がどのように下されるのか、見聞したことがあるだろう。

つまり、ここで明言されているのは、責任転嫁なのだ。

一方、記者会見を開いた日大の宮川選手は立派だった。これで彼は自らを救うことができたし、皮肉なことに日大も救われた。彼にとって、内田監督は信頼関係を尋ねられて首をひねるほど口をきいたこともない偉い人だった。アメフトの日本代表メンバーに選ばれるほどの有力な選手だったのに、理由も告げられず代表を辞退せよと言われても「なぜですか?」と尋ねることさえ憚られる雲の上の人だった。

内田監督は日大経営陣では人事権を握るナンバー2といわれ、次期学長や理事長の呼び声もあるそうだ。この間、その内田監督以上の地位にある政治家や高級官僚たちから、記者会見や国会の場で、責任転嫁や回避のためにする明言をたくさん聞いてきた。今日、20歳の若者から、それらとは真反対の言葉を聞くことができた。彼はアメフトの選手生命と有力な就職口を失うことと引き換えに、自らの知る事実を語り、責任をとった。

この件で、最大のダメージを受けたのは、アメフト界や日大、内田監督ではないと思う。加計問題で愛媛県庁から新たな文書が国会に提出され、「新事実が明らかになった」と野党から問題にされた日に、この若者の記者会見が開かれた。潮目が変わる予兆ではないか、と誰よりも深刻に受け止めている人間が内閣府にいる気がする。政治は一寸先は闇とはよくいったものだ。どこから鉄砲玉が飛んでくるかわからない。

血が混ざってこそ家族なのか、日本の家族は崩壊したが…
http://japanese.joins.com/article/462/241462.html

-主人公は社会のセーフティネットから疎外されている。

「日本は経済不況で階層間の両極化が進んだ。政府は貧困層を助ける代わりに失敗者として烙印を押し、貧困を個人の責任として処理している。映画の中の家族がその代表的な例だ」

-経済不況が日本をどのように変えたか。

「共同体文化が崩壊して家族が崩壊している。多様性を受け入れるほど成熟しておらず、ますます地域主義に傾倒していって、残ったのは国粋主義だけだった。日本が歴史を認めない根っこがここにある。アジア近隣諸国に申し訳ない気持ちだ。日本もドイツのように謝らなければならない。だが、同じ政権がずっと執権することによって私たちは多くの希望を失っている」

政治的発言とはこうやるんだ。その見本のような是枝監督のカンヌ映画祭パルムドール受賞コメントだった。

ツイッターをはじめとするSNSの引用を意識して、映画の背景をごく短くまとめ、マスコミ各社が洩れなく受賞報道をする機会を狙って、痛烈な安部批判をした。

政治的発言とは、なにか政治っぽいことをごにょごにょ言うことではない。メディアを選び、タイミングをはかり、できうる限りの政治的ダメージを直接間接に与える試みなのだ。

したがって、メディアとタイミングを選ぶことができる人こそ、むしろ政治的発言をすべきである。映画監督やたとえば芸能人は政治的発言をすべきではないという考えは、彼らがしないでいったい誰がする?と問われたときに代替を思いつかないだろう。

それでも、彼らは政治的発言によって、名声を得たり、収入を得ているのではない、と追いすがる声は続くだろう。それを言えば、政治家や政治学者、政治記者しか、政治的発言の有資格者はいなくなる。ならば、メディアやタイミングを選ぶことができない一般人は政治的発言とは一切無縁でなければならない。

いうまでもなく、現実はその反対である。一般人もインターネットというメディアを得て、即時に書き込みが反映されてタイミングを選ぶこともできる。その影響力は比べようもないが、つまり、一般人ができることを彼ら著名人もできるというに過ぎない。

ただし、政治的発言にはもうひとつ、欠いてはならない条件がある。権威や体制を批判するものでなければならず、政治的発言が足りないとはいわず、政治的発言が過ぎるとよくいわれるのはそのためだ。権威や体制に迎合したり、阿諛追従するものでは支持や賛同を得られず、それでは権威や体制を、現実を変えることはできないからだ。

メディアとタイミングとその内容の3条件を備えなければ、政治的発言足り得ない。是枝監督の場合、韓国の中央日報というメディアを選んで、あえて生硬な言葉遣いで安倍政権下の日本を総括してみせた。「この喜びをまず誰に伝えたいですか?」に集約される、世事や世辞を優先する日本のメディアでは、まず伝えられない内容だ。

是枝監督の言葉として数多くのツイッターが引用したおかげで、たぶん、彼の狙い通り、賛否両論が巻き起こっている。

換言すれば、私たちは政治的発言をすることをむやみに恐れる必要はないのだ。たいていは、政治的発言未満なのだから。このブログを含めて。

(止め)

コメント
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