観たくないと避けてきた映画だった。
赤衛軍事件を起こした菊井良治と取材した朝日ジャーナル記者川本三郎を軸に、1969~1971年、大学を席巻した全共闘運動のある顛末を「愚行録」として辿った映画だからだ。
1971年8月、陸上自衛隊朝霞駐屯地に侵入し武器庫から武器を盗もうとした赤衛軍2名が警備中の一場哲雄陸士長を刺殺した。
この事件を計画し首謀した日大生菊井良治に取材接触した川本三郎は、犯人蔵匿及び証拠隠滅の罪で逮捕され、朝日新聞社を懲戒解雇された。
また、当時、「暴力革命論」を唱えて学生に人気があった京大助手滝田修(本名竹本信弘)は、菊井と接触があったため、共謀を疑われて指名手配され、10年間の逃亡生活の末逮捕された。裁判では共謀は認められず、強盗致死の幇助で懲役5年の有罪となった。
以上が事件の顛末である。
若き川本三郎記者と交流のあった、週刊朝日の表紙モデルの美少女は、こう言う。「どちらかと言うと、それまでは学生運動に賛成の立場だったけど、罪のない人が死んだことで、嫌な感じがする…」(ただし、川本三郎の原作本は未読なので、モデルとなったじっさいの保倉幸恵がそう発言したのか不明である)。
この事件を知ったとき、彼女と同年だった私も同様に感じた。いや、とっさに思ったのは、「まずいものを見てしまった」という舌打ちしたい後悔だった。
高見順に「いやな感じ」という小説がある。
俺はこのとき、まずいものを見てしまった。いや、なに、女の立て膝の奥を見たというのではない。
足もとの土間に、ラーメンの丼どんぶりが二つ重ねて、じかに置いてある。それが俺の眼に映った。それだけならいいんだが、食べ残しのそのおつゆのなかに、煙草の吸殻すいがらが捨ててある。紙の腹が切れて、ふやけた臓物がきたならしくはみ出ている上に、抜け毛を丸めたのまでが、べたりとくっついている。風で飛びこんだのか。それとも、これもわざと捨てたのか。きたねえことをしやがると俺は顔をしかめたが、すぐ、
「いや、これでいいんだ。このほうがいいんだ」
と自分に言いきかせた。汚濁にまみれた俺が、それをきたないなんて言えた義理ではない。俺自身のほうが、よっぽど、きたない。
ここで、この映画の主な登場人物の事件当時の年齢を記してみたい。
滝田 修 1940年(昭和15)生、1971年時 31歳
山本 義隆 1941年(〃16)生 〃 30歳
川本 三郎 1944年 (〃19) 生 〃 27歳
菊井 良治 1949年 (〃24) 生 〃 22歳
一場哲雄陸士長 1950年 (〃25) 〃 21歳
保倉 幸恵 1953年 (〃28) 生 〃 18歳
菊井良治と対比して描かれる東大全共闘議長の山本義隆と、菊井が支援を求めて接近した京大助手の滝田修が、60年安保のときはともに20歳前後の安保世代であることがわかる。
1969年に東京大学を卒業した川本はまさに「学園紛争」のど真ん中世代だが、占拠した全共闘学生と機動隊が2日間にわたって激しい攻防戦を繰り広げた東大安田講堂事件が起きた1969年に、19歳だった菊井良治は「闘争」の最盛期に遅れた年代といえる。ちなみに、実行犯の日大生は19歳、元自衛官で駒沢大生は21歳だった。
映画「マイ・バック・ページ」、たぶん川本三郎の同名原作も、1969~1971年という時代を描こうとしている。それは学生たちが政治的に先鋭化した過激な時代ではあったのだが、そうした学生運動や学園闘争にやや遅れてきた青年たちを通して、時代に迫ろうとしたように思える。
滝田修や山本義隆は60年安保の盛り上がりを肌身で経験したはずだが、菊井たちのようにまだ未熟な若者であり、川本のようにナイーブだったはずだ。1969年にまだ未成年だった菊井たちは「学園闘争」の最盛期を直接知るはずもない。1969年1月の「安田講堂攻防戦」は全国の大学全共闘運動の最後の火花であり、これを分岐点に闘争は一気に下火になっていくのである。
山本義隆や滝田修を取材し、菊井良治に接近した、「闘争ど真ん中」年代の川本三郎もまた、週刊誌記者という「傍観者」として話を聞く、あらかじめ遅れた立場にいた。その自覚こそが川本をして菊井にのめりこませ、就職浪人までして憧れたジャーナリストの道を踏み誤らせたのではないか。
当時、高校生だった私や保倉幸恵など、さらに遅れていた年代も「過激派学生」にシンパシーを抱いていたが、どこか他所の「祭り」のように、あるいは乗り損ねた電車の後部を見送るように、多少の後悔を含んだ冷めた気持だったと思う。
当時は大学だけでなく、高校にも「学園闘争」が波及し、新左翼党派に「オルグ」されて街頭デモに参加する高校生も少数ながらいたことが新聞にも報道されていたので、まったく無知無縁な高校生のほうが少なかっただろう。
自分が居るべき時空間に遅れた、決定的に遅れているという自覚とは、すなわち失敗が先立っているのと同じである。川本三郎記者につきまとう状況への「後ろめたさ」や菊井への「気後れ」がそれを物語っている。
失敗から始まっているのなら、成功は途方もないものでなくてはならない。菊井がのめりこんだ過激な行動主義と川本の大スクープ狙いはそうした理路を辿って交差したに思える。
「遅れ」を取り戻そうと先走ったようにみえて、じつは「遅れ」とは過去に向かい、現在に生きようとしていないことでもある。失敗から始まって約束された失敗に終わる愚行の記録のなかで、いまを生きる3人が対比されて描かれている。それがこの映画を秀作にしている。
一人はいうまでもなく、「この事件は嫌な感じがする」といった保倉幸恵であり、もう一人は刺殺された一場哲雄陸士長である。一場哲雄陸士長は赤衛軍2名と格闘中、肺を貫通する刺傷2カ所を受けて倒れるも、犯人が逃走後、通報のために警衛所をめざしておよそ100mを這いずりながら進み、中途で力尽きた。
インタビューで監督自身が答えているが、保倉幸恵との交流と一場哲雄陸士長の無残な最期の場面を重要視している。取り戻せない過去へ向かう者によって蹂躙されながら、いまこの瞬間を生きようと懸命に雨泥を這い進む者がいたことを忘れさせまいという強いカメラアイ(視線)が印象に残った。
保倉幸恵と一場哲雄陸士長は川本三郎に対応する人物であるが、もう一人は菊井良治に対比されている。虚言癖で詭弁家で現代でいえばサイコパスと呼ばれるような、救いのない菊井良治という人物像に対比される一人については、次回に積み残そう。
(敬称略 この項続く)
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