昭和23年12月24日、クリスマスイブの日、一人のA級戦犯がスガモ・プリズンを出所した。翌年、スガモ・プリズンに収容された戦犯の家族や遺族に、男から一枚の葉書が届く。
御主人の御苦労千万に対し深く御同情中上けます。私もA級戦犯容疑者として巣鴨へ入獄、昨年末満三年振りで無事釈放されましたが、皆様の事を想起いたしますと好物の酒も咽喉を通りませんので皆様の釈放後共に楽しく頂ける迄禁煙禁酒を誓つております。手足で出来ます事なら喜んで御用を勤めますから何なりと御遠慮なく御相談下さい。
豊島区東池袋、サンシャイン60の高層ビルがそびえ立つ地には、かつて、スガモ・プリズンと呼ばれた「戦犯」を収容する刑務所があった。戦前は未決囚を収容する東京拘置所だったが、敗戦直後から米占領軍によって接収され、昭和33年に再び東京拘置所に改称されるまで、極東軍事裁判で裁かれたA級戦犯をはじめ、BC級戦犯を合わせて、延べ5千人の戦犯が収容され、ABC級戦犯60人が絞首刑に処せられた(正確な収容者数は不明。外地で戦犯とされた人も帰国収容された)
男とその妻は、焼け跡闇市の東京で、精力的に戦犯とその家族・遺族の慰問・援護活動を開始した。その活動はスガモ・プリズンの収容者がゼロになった昭和33年まで10年間にわたり、その後も処刑された戦犯の慰霊事業は続けられた。
スガモの「戦犯者」への膨大な量の差し入れ、慰問、彼らの減刑・釈放のための働きかけ、外地で旧敵国の手で行なわれ、そこに収容されていた「戦犯者」の内地還送、「戦犯者」の留守家族の救済、国会での「戦犯者」の釈放を要請する決議の促進、慰霊祭の開催等々、その活動は多岐にわたる。これは単に資金を提供するというだけではない。当時は、たとえ資金があったとしても容易に必要な物資が手に入るというような状況ではなかった。さまざまな工夫が必要であったのである。自ら物資を求めて動き、スガモに行っては「戦犯者」と面会し、留守家族や遺家族を訪問して慰問し、国会議員に働きかけ、実情を知ってもらうため彼らをスガモに案内し…と動き回ったのである。
このような行動は、当時一般的になされるべきこととはされておらず、むしろ忌避すべきものとされていた。冷たい目で見る者はあっても、称揚する者はなかった。それを、スガモに一人の「戦犯者」が存在しなくなるまで、酒も煙草も断つという頗る固い決意で行なったのであった。
この困難な活動について、男は一切を語ることはなく、活動の記録もまた残さず、平成7年、96歳の長寿を全うした。男が出した葉書は、ひな型として残っていたものだった。ただ、戦犯やその家族、遺族から男へ返信された礼状や相談事などの手紙約3千通は残されていた。その男の名を、笹川良一という。
『「戦犯者」を救え-笹川良一と東京裁判2』(伊藤 隆編 中央公論新社 2008)
この本は、約3千通の「戦犯者」とその家族の笹川宛書簡から、288通を編んだもの。大日本帝國の軍高官や政府首脳、財界人など、著名なA級戦犯から無名のBC級戦犯とその家族の生の声が収められている。全528頁のうち、伊藤隆の解説78頁を読んだところで、まだ書簡は拾い読みだが、従来の笹川良一像の修正を迫る画期的な資料だと思えた。
笹川良一といえば、日本船舶振興会の会長として、競艇事業を一手に握り巨万の富を得て、「世界は一家、人類はみな兄弟」のスローガンや「お父さん、お母さんを大切にしよう」という修身CMで有名なアナクロじいさん。その一方、戦前から右翼政治家として、戦後は児玉誉士夫と並ぶ「日本の首領(ドン)」と畏怖される右翼の大物。
そんなところが、私の笹川良一像だった。率直にいえば、金と権力に貪欲な時代劇によく出てくる悪人のようなイメージだった。笑顔の皺は深かったが、その眼は笑っておらず、明治生まれの老人にときどき見かける、ちょっと気味の悪い威圧感があった。よく考えてみれば、悪人であるという明らかな根拠は、私には何もなかったのだが。
このような笹川の知られざる(一切宣伝しなかった)行動は、笹川にとっていったいどのような意味を持っていたのであろうか。太平洋戦争の本当の終結をもたらし、最大の敵共産主義国と対抗して日本を守るためには、日米の同盟以外にないとする笹川にとって、日米間の疎隔要因であり、刺さった鰊ともいうべきスガモを一日も早く消滅させる必要があるという意味を持っていたということはできる。しかし、これはどまでに無償の行為(唯一の救いは、本書にその一部を収録した感謝の手紙であったろう)にのめり込んだのには、そうした理屈を超えたもの、「義」とでもいう以外に説明のしようがない。(前と同じ はじめに-伊藤隆)
1998年、NPO法(特定非営利活動促進法)が施行されたとき、都内のNPO法人を申請予定の高齢者福祉団体やリサイクル市民団体などを調査した際、日本船舶振興会から100~300万円の寄付を受けられて、「とても、助かった」という声をいくつか聞いた。競艇賭博のあぶく銭を売名目的でバラまいているのだろうくらいに思っていた。いまは日本財団と名称を変えたが、かつて笹川良一が率いた日本船舶振興会が、どのような活動をしていたのか、いずれ再評価されるかもしれない。
もちろん、笹川良一が、人格高潔にして清廉潔白な人生を送ったとは思わない。金も女も大好きな、俗気山気もじゅうぶんな人だったと聞いている。しかし、昭和23年、49歳でスガモ・プリズンを出所してから10年間の笹川良一は、戦犯とその家族にとって、やはり義人として映ったことだろう。
この本では、戦犯ではなく、「戦犯者(せんぱんしゃ)」という呼称を使っている。前者が戦争犯罪者として有罪となった者、後者がその容疑をかけられた者の総称である。戦犯の容疑をかけられたが不起訴や無罪になった人も数多く、あるいは有罪とされたが無実・無罪だった例も少なくないことは、今日では周知となっている。
後に首相となる岸信介も、不起訴となった戦犯の一人だったが、岸信介の功罪はともかく、戦後間もない時期、世間の目から「戦犯」とひとしなみに忌避された当事者やその家族の苦境とその心中は、笹川への礼状の数々の端々に記されている。だが、嘆きや憤懣はごく控えめで、多くは丁寧な心のこもった感謝の言葉に満ちている(まだ、半分しか読んでいないが)。
なかには、こんな微苦笑を誘われるハガキもある。当時の貧窮した世情と、笹川の播いた助け合いの種が芽吹いていた様子がうかがわれよう。
前略取り急ぎ御相談申し上げます。戦犯十年にて仮出所なさいました箕島肇様十二月り私宅に泊られ十二月三十盲無理にでて頂きました(私の母が十二月二十五日より病気になり病重く私が麹町の家に看護に泊りに出かけており一月八日胃がんにて死去)。
箕島様三十一日私宅を出られる時大坂まで行くのに寒いからとて家に寄宿しておる学生さんの外套を四日までかしてくれと申され着て行かれそのまゝかへして頂けず背服は内田のを十七日からきておられます。その外学生さんのシマメイセンの丹前一枚なくなつておることがわかり私も困つております。笹川様の事務所に箕島様十二月中訪ねて行かれた話聞きましたので其の後もし箕島様見えましたらオーバーだけでも至急返して下さるやう申上下さい。かしこ
渋谷区桜丘十五 笹川良一様
豊島区高田本町二ノ一四八八 内田梅子
日米同盟を視野に入れて、その露払いを買って出たのではないか、と伊藤隆が推測する動機から、膨大な戦犯者の緊急事やその家族の市井の雑事まで引き受ける笹川の姿は、すぐには結びつかないところがある。少なくとも、大所高所に立つ国士より、身近に役立つ寸志有志が日々必要とされていたと思える。
「世界は一家、人類はみな兄弟」は、けっして伊達や酔狂で唱えたことではなく、彼はなかば本気でそれを信じていた。日本人をひとつの家族のように考え、助け合おうとした。
なぜならば、笹川良一の祖国とは、栄えある戦前の大日本帝國ではなく、戦犯者とその家族が必至に生きた敗戦直後に在った。見出したからだ。そう考えてみるのも、わるくない気がした。
(敬称略)
御主人の御苦労千万に対し深く御同情中上けます。私もA級戦犯容疑者として巣鴨へ入獄、昨年末満三年振りで無事釈放されましたが、皆様の事を想起いたしますと好物の酒も咽喉を通りませんので皆様の釈放後共に楽しく頂ける迄禁煙禁酒を誓つております。手足で出来ます事なら喜んで御用を勤めますから何なりと御遠慮なく御相談下さい。
豊島区東池袋、サンシャイン60の高層ビルがそびえ立つ地には、かつて、スガモ・プリズンと呼ばれた「戦犯」を収容する刑務所があった。戦前は未決囚を収容する東京拘置所だったが、敗戦直後から米占領軍によって接収され、昭和33年に再び東京拘置所に改称されるまで、極東軍事裁判で裁かれたA級戦犯をはじめ、BC級戦犯を合わせて、延べ5千人の戦犯が収容され、ABC級戦犯60人が絞首刑に処せられた(正確な収容者数は不明。外地で戦犯とされた人も帰国収容された)
男とその妻は、焼け跡闇市の東京で、精力的に戦犯とその家族・遺族の慰問・援護活動を開始した。その活動はスガモ・プリズンの収容者がゼロになった昭和33年まで10年間にわたり、その後も処刑された戦犯の慰霊事業は続けられた。
スガモの「戦犯者」への膨大な量の差し入れ、慰問、彼らの減刑・釈放のための働きかけ、外地で旧敵国の手で行なわれ、そこに収容されていた「戦犯者」の内地還送、「戦犯者」の留守家族の救済、国会での「戦犯者」の釈放を要請する決議の促進、慰霊祭の開催等々、その活動は多岐にわたる。これは単に資金を提供するというだけではない。当時は、たとえ資金があったとしても容易に必要な物資が手に入るというような状況ではなかった。さまざまな工夫が必要であったのである。自ら物資を求めて動き、スガモに行っては「戦犯者」と面会し、留守家族や遺家族を訪問して慰問し、国会議員に働きかけ、実情を知ってもらうため彼らをスガモに案内し…と動き回ったのである。
このような行動は、当時一般的になされるべきこととはされておらず、むしろ忌避すべきものとされていた。冷たい目で見る者はあっても、称揚する者はなかった。それを、スガモに一人の「戦犯者」が存在しなくなるまで、酒も煙草も断つという頗る固い決意で行なったのであった。
この困難な活動について、男は一切を語ることはなく、活動の記録もまた残さず、平成7年、96歳の長寿を全うした。男が出した葉書は、ひな型として残っていたものだった。ただ、戦犯やその家族、遺族から男へ返信された礼状や相談事などの手紙約3千通は残されていた。その男の名を、笹川良一という。
『「戦犯者」を救え-笹川良一と東京裁判2』(伊藤 隆編 中央公論新社 2008)
この本は、約3千通の「戦犯者」とその家族の笹川宛書簡から、288通を編んだもの。大日本帝國の軍高官や政府首脳、財界人など、著名なA級戦犯から無名のBC級戦犯とその家族の生の声が収められている。全528頁のうち、伊藤隆の解説78頁を読んだところで、まだ書簡は拾い読みだが、従来の笹川良一像の修正を迫る画期的な資料だと思えた。
笹川良一といえば、日本船舶振興会の会長として、競艇事業を一手に握り巨万の富を得て、「世界は一家、人類はみな兄弟」のスローガンや「お父さん、お母さんを大切にしよう」という修身CMで有名なアナクロじいさん。その一方、戦前から右翼政治家として、戦後は児玉誉士夫と並ぶ「日本の首領(ドン)」と畏怖される右翼の大物。
そんなところが、私の笹川良一像だった。率直にいえば、金と権力に貪欲な時代劇によく出てくる悪人のようなイメージだった。笑顔の皺は深かったが、その眼は笑っておらず、明治生まれの老人にときどき見かける、ちょっと気味の悪い威圧感があった。よく考えてみれば、悪人であるという明らかな根拠は、私には何もなかったのだが。
このような笹川の知られざる(一切宣伝しなかった)行動は、笹川にとっていったいどのような意味を持っていたのであろうか。太平洋戦争の本当の終結をもたらし、最大の敵共産主義国と対抗して日本を守るためには、日米の同盟以外にないとする笹川にとって、日米間の疎隔要因であり、刺さった鰊ともいうべきスガモを一日も早く消滅させる必要があるという意味を持っていたということはできる。しかし、これはどまでに無償の行為(唯一の救いは、本書にその一部を収録した感謝の手紙であったろう)にのめり込んだのには、そうした理屈を超えたもの、「義」とでもいう以外に説明のしようがない。(前と同じ はじめに-伊藤隆)
1998年、NPO法(特定非営利活動促進法)が施行されたとき、都内のNPO法人を申請予定の高齢者福祉団体やリサイクル市民団体などを調査した際、日本船舶振興会から100~300万円の寄付を受けられて、「とても、助かった」という声をいくつか聞いた。競艇賭博のあぶく銭を売名目的でバラまいているのだろうくらいに思っていた。いまは日本財団と名称を変えたが、かつて笹川良一が率いた日本船舶振興会が、どのような活動をしていたのか、いずれ再評価されるかもしれない。
もちろん、笹川良一が、人格高潔にして清廉潔白な人生を送ったとは思わない。金も女も大好きな、俗気山気もじゅうぶんな人だったと聞いている。しかし、昭和23年、49歳でスガモ・プリズンを出所してから10年間の笹川良一は、戦犯とその家族にとって、やはり義人として映ったことだろう。
この本では、戦犯ではなく、「戦犯者(せんぱんしゃ)」という呼称を使っている。前者が戦争犯罪者として有罪となった者、後者がその容疑をかけられた者の総称である。戦犯の容疑をかけられたが不起訴や無罪になった人も数多く、あるいは有罪とされたが無実・無罪だった例も少なくないことは、今日では周知となっている。
後に首相となる岸信介も、不起訴となった戦犯の一人だったが、岸信介の功罪はともかく、戦後間もない時期、世間の目から「戦犯」とひとしなみに忌避された当事者やその家族の苦境とその心中は、笹川への礼状の数々の端々に記されている。だが、嘆きや憤懣はごく控えめで、多くは丁寧な心のこもった感謝の言葉に満ちている(まだ、半分しか読んでいないが)。
なかには、こんな微苦笑を誘われるハガキもある。当時の貧窮した世情と、笹川の播いた助け合いの種が芽吹いていた様子がうかがわれよう。
前略取り急ぎ御相談申し上げます。戦犯十年にて仮出所なさいました箕島肇様十二月り私宅に泊られ十二月三十盲無理にでて頂きました(私の母が十二月二十五日より病気になり病重く私が麹町の家に看護に泊りに出かけており一月八日胃がんにて死去)。
箕島様三十一日私宅を出られる時大坂まで行くのに寒いからとて家に寄宿しておる学生さんの外套を四日までかしてくれと申され着て行かれそのまゝかへして頂けず背服は内田のを十七日からきておられます。その外学生さんのシマメイセンの丹前一枚なくなつておることがわかり私も困つております。笹川様の事務所に箕島様十二月中訪ねて行かれた話聞きましたので其の後もし箕島様見えましたらオーバーだけでも至急返して下さるやう申上下さい。かしこ
渋谷区桜丘十五 笹川良一様
豊島区高田本町二ノ一四八八 内田梅子
日米同盟を視野に入れて、その露払いを買って出たのではないか、と伊藤隆が推測する動機から、膨大な戦犯者の緊急事やその家族の市井の雑事まで引き受ける笹川の姿は、すぐには結びつかないところがある。少なくとも、大所高所に立つ国士より、身近に役立つ寸志有志が日々必要とされていたと思える。
「世界は一家、人類はみな兄弟」は、けっして伊達や酔狂で唱えたことではなく、彼はなかば本気でそれを信じていた。日本人をひとつの家族のように考え、助け合おうとした。
なぜならば、笹川良一の祖国とは、栄えある戦前の大日本帝國ではなく、戦犯者とその家族が必至に生きた敗戦直後に在った。見出したからだ。そう考えてみるのも、わるくない気がした。
(敬称略)
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