コタツ評論

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クラッシュ 追記

2006-08-11 00:44:01 | ノンジャンル
>映画としては人間の紐帯という希望に縋ろうとしているが、

としたが、考えてみれば、「人間の紐帯」なんて曖昧なものはない。ここは、アメリカ人としての「社会的紐帯」とするのが妥当だなと思った。しかし、そう補足してしまうと、私の予断が覆されて少し困る。


伝えられるアメリカの現状では、911以降、異なる人種(民族・宗教・文化を内包する)が、互いにクラッシュ(ぶつかり)するのではなく、人種を超えてアメリカ人としての同調圧力が非常に高まっているという。当然、911以降に企画制作されたこの映画が、「クラッシュ」をテーマにしたのには、そうしたファッショ的なアメリカの現状に対するアンチメッセージが込められていると考えられるわけだ。したがって、911以前の「社会的紐帯」を取り戻せということになり、差別被差別が「クラッシュ」する社会のほうが、アメリカンファッショよりましだということになる。社会を視座にすれば、差別被差別が「クラッシュ」する社会より、統合や融和がはかられる社会がよいに決まっている。だが、個別人間に還元すれば、統合や融和が差別などよりはるかに重大で過酷な暴力をともなう場合が多いことはいうまでもない。統合や融和がはかられる対象が、あらかじめ定められているからだ。人種や階層がクラッシュするアメリカに進歩と成熟を見い出し、911以降の戦時体制にその真逆という評価を下しているなら、私の感想はまったく的はずれになってしまう。もう少し考えて書けばよかったな。

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黒人、アラブ人、アジア人などのクラッシュのなかに、ユダヤ人がなかったのはなぜなのか?
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肉ジャガ

2006-08-09 11:18:47 | レンタルDVD映画
「エゴイスト」というB級映画が拾いものだった。
アンディ・ガルシア扮する売れない小説家が、貧乏に耐えかねてエスコートサービス(高級男娼)になるが、そこで大作家(ジェームズ・コバーン)の妻に買われ、その伝で・・という話。このエスコートサービスの経営者にして、売れない小説家を男娼の世界に導く、辛辣とユーモアを自在に操るメフィストフェレス役がなんとミック・ジャガー。


その冷徹な彼がベテラン男娼にあるまじき夢を描いて、馴染み客アンジェリカ・ヒューストンにプロポーズするが、冗談か演出と大笑いされて、皺だらけの顔が泣き笑う。とても余技というレベルではなく、よく似た俳優がいるものだなあと途中まで感心していた。あの細身の身体に高級スーツ、あの顔の半分を占める表情豊かな唇に気障に煙草をくわえるところなど、哀愁と倦怠をまとった初老の伊達男にぴったりだった。超ハンサムなアンディ・ガルシアが完全に食われていた。Charもなあ、若い頃はミック・ジャガーばりセクシーだったのに、いまやただのむさいおっさんになった。その後の知性と教養の蓄積の差だろう。ギター小僧がただのギターおやじになるような健全な人生をミック・ジャガーは選べなかった。ジョウビズ界における男娼としての存在の大きさが比較にならないからだ。ミック・ジャガーはそれに拮抗しなければならなかった。

この映画、大川橋蔵みたいなアンディ・ガルシアのミスキャストを除けば、ミック・ジャガーが登場する箇所以外にも、わるくない場面があった。たとえば、秘密のバイトを知って怒って家を出た売れない小説家の妻が、あてつけに同僚の男娼を買ってホテルのロビーで夫と鉢合わせする。別れても互いを愛している二人、妻は軽蔑を込めてにらみ、夫は身勝手にも傷ついて眼を伏せる。すれ違った後、妻は夫の同僚である男娼に、「こんな仕事をして楽しいの?」と尋ねる。趣味と実益とばかりに、いつも軽快な様子だったその男娼(これも中年だが)は、売れない小説家の妻であることを知り、暗い表情でこういう。「女としているときは、自信を取り戻せるんだ」。
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Nスぺ 硫黄島

2006-08-08 00:51:54 | ノンジャンル
を視聴した。聴取料払ったことないけど。

数少ない生き残りの生き残りの八十翁たちの証言。そのひとつ。「昨日、今日のことはすぐ忘れるのに、62年前のことは針の穴くらいのことまでよく覚えている」。塹壕に籠もり食料や飲料水を取り合って自滅していく様を、「理性など何処にもありません」。米軍の携帯食やチョコレートを持って、向こうは待遇はいいぞと投降を呼びかけに戻った戦友を撃ち殺した理由について。「国賊と呼ばれるのは可哀相だから」(「名誉の戦死」にした)。
いまでもかつての戦友を弔い、供養している人たちだった。元将校も元下級兵士も、元少年兵も、立派な顔をしていた。「俺は俺なりに懸命にやってきた。そういうしかないですよ、戦友たちには」といってこみ上げる涙をハンカチで押さえる。東京都硫黄島。蟻の巣のように張り巡らされた塹壕に遺された数千の皇軍兵士の遺骨はまだ収集されていない。ところで、この遺骨収集を細々と民間で続けている団体がそれなりの数ある。いわゆる、右翼やヤクザの団体が多い。彼らは企業などに寄付を募っているのか。私が知る限り、同じ右翼やヤクザに奉加帳を回して活動を続けている。

最近、「Nスぺ」など安易に省略するのが気にならなくなった。「目線」などもたまに使ってしまう。熱いおしぼりを出されるとついでに首筋まで拭ってしまう。いずれも若い頃はけっしてすまいと思い、している人を軽蔑したものだ。俺はずいぶん変わってしまった。一方、62年経っても変わらずに思っている人もいるのに。

クリント・イーストウッドが「硫黄島」を映画化するそうだ。日本で映画化しない以上、どんな映画をつくられてもしかたない。
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ちあきなおみ

2006-08-05 23:58:33 | ノンジャンル
ちあきなおみ「全曲集」というのをTUTAYAで借りてきた。
異様、奇怪なCDだった。ちあきなおみは周知のように、すでに引退した歌手だから、過去の別々な時期の録音を集めたはずなのに、どの曲もまるで黄泉の国に魅入られたような不吉な霧をまとっている。すべて長いイントロがつくが、「盛り上げる」という点ではことごとく失敗している。が、あの世で奏でられているような音が、囁くかと思えば、ときに切れ切れの悲鳴のように声を張るちあきの歌唱に不思議に合っている。死へ誘うというより、すでに半分死んでいる、歌うほうも聴くほうも。そんな気にさせる。

追記:和平飯店南楼http://6404.teacup.com/kerokero/bbsで以下のように間違いを指摘された。謹んでお詫びします。
「最初のヒット曲はどう考えても「四つのお願い」(1970)だろう。続く「X+Y=LOVE」(1970)もそこそこヒットした。ちなみに「喝采」は1972年リリース。」
ちあきなおみの最初のヒット曲は「喝采」。「黒い縁取りがありました~♪」という、かつての恋人の死を歌ったものだった。その後、宍戸錠の実弟で俳優の郷鍈治と結婚したが先立たれ、その死を境に歌手として高い評価にも関わらず歌の世界から消えたとされている。ちなみに郷鍈治は哀愁のある得難い俳優だった。そんな先入観が影響しているのかとも思い、何度か聴き直してみたが、不幸や薄幸を通り越して来世しているようなこの不吉さはそんな生易しいものではない。とくに、石原裕次郎の持ち歌をカバーした「赤いハンカチ」と「こぼれ花」。どちらの曲も、もともと暗い旋律で絶望的な歌詞なのだが、ちあきなおみが歌うと、霧が立ちこめた三途の川のほとりにいるように感じられる。ずいぶん昔に、ちあきなおみの「流転」をラジオで聴いて、そのゾッとするような陰惨な暗さに驚いて気にしていたが、彼女はあれからもっと先に行ったようだ。
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亀田興毅 長男の哀しみ

2006-08-04 01:06:00 | ノンジャンル
世間では「疑惑の王座」などと騒いでいるが、亀田興毅には泣けた。

「オヤジのボクシングが世界に通用することを証明できて嬉しい」と亀田興毅は泣きながら叫んだ。そして、「オヤジありがとう!」といい、「お母さん、産んでくれてありがとう」と続けた。公の場で母に呼びかけたのは、たぶんはじめてのことではないか。幼い頃から黙々と働いてきた長男がその責務を果たし、「浪速の闘拳」から等身大の少年に戻った一瞬だった。チンピラスタイルにサングラス、ヤクザもどきの眼飛ばしと粗野な言動で売り出す以前、両親が離婚せずまだ母が家にいた頃の亀田興毅は、前髪を額でそろえたボブカットの女の子のように可愛らしい子どもだった。これで名実ともに日本ボクシング界の長男になった。同時に、一人の少年にこれまで以上の苦難が背負わされた瞬間でもあった。

たがいの脳と内臓を破壊し合うボクシングほど残酷なスポーツはないだろう。しかし、それ以上に残酷なのは、家族の夢と欲望とメディアや興業の貪欲のすべてを選手が一身に引き受け、その栄光が破綻していく姿が衆人に晒されて娯楽になることだ。現在の「亀田バッシング」とは、そうした残酷見世物の第一幕が上がったことを意味する。そして、長男・興毅は、「オヤジのボクシング」であるピーピングトム・ガードに身を固め、ベタ足で接近戦に持ち込むという、軽量級にあるまじき非合理な戦法を続けて、無惨に負けていくだろう。オヤジに殉じ、弟たちの捨て石になるつもりなのだ。それが粗暴な外見と言動に隠された亀田家の家族愛なのか。亀田興毅は反教育に見えて、実は教育的存在なのか。いや、非教育の結果なのだと思う。

母を失い、父に教育されたもう一人の長男の最近の悲劇を知っている。自宅に放火して3人の命を奪った長男に面会した父親は、「パパも一緒に罪を償う」と話しかけた手記を公表した。ボクサーと医師。2人の父は自らの夢と欲望を叶えるために、エリートになることをそれぞれの長男に強制した。職業教育を教育と取り違えていると責めるのは酷だろう。それ以外に知らなかったというより、父にはできなかったのだ。少年期にもっとも重要な、日々の暮らしそのものが楽しみであるという、主に母の慈愛によってなされる諸々の事物を通じた育みはできないと知っていた。「パパも一緒に罪を償う」「お前の更正を信じている」。もちろん、こんな場合、それ以外の言葉はないのかもしれない。しかし、どこまでいっても子どもの社会性にしか寄り添えない父の教えに、やはり涙する。

(敬称略)
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